イエス様は、ガリラヤのカペナウムを拠点にしてユダヤ人たちに対して「伝道宣教」を開始されました。神様の素晴らしさを教え、多くの人々の病を癒し、悪霊につかれた人々を悪霊から解放し、また、死んでしまった娘を生き返らせ、悩む人たちの思い煩いをも癒されました。そして、そのことで人々にメシヤ(救い主)の到来を思わせ、いよいよ神の国が近づいたことを伝えました。
イエス様のもとには、主のお話を聴きたい人たちや、病を癒してほしい人たちが沢山集まり、イエス様には休む暇がないほどでした。しかし、イエス様は集まって来る人々を温かく迎え、懸命にかかわった様子が伝わってきます。どうして主は懸命に人々にかかわろうとされたのでしょうか? イエス様の目には、求めて集まってくる人たちが「羊飼いのいない羊」=迷い出た羊に見えたからです。イエス様は(神のもとから一人として零れ落ちる者がないように=一人ひとりが救われるように懸命にかかわっておられたわけです。
聖書のお話は、2000年前のものですが、2000年経った現在も、変わらずに生きて働かれるキリストが 「あなた」や「私」のために深く関わろうとして下さっています。
わたしも30年ほど前にこの教会に導かれましたが、そのときの「私」は(まさに)迷い出た羊のようでした。というのは、父が進行性の肺がんにかかり、3か月で亡くなる出来事が起こりました。そのときは、「なぜ父が亡くなったのだろう、、、神さまがいるのなら(なぜ)こんなことが起こるのだろう」と、納得できない気持ちでいっぱいでした。職場で出会った直子(わたしの妻)に誘われるままに教会にやってきました。
はじめの頃は聖書の言葉がさっぱり分からない日々が続きましたが、しかし、直子に祈りを勧められ、「神さま、あなたが本当におられるのでしたら、私にそのことを示してください」と(祈り方も満足にわからないまま)2~3か月祈ったでしょうか。その後、ある日夢の中で神さまの声を聞きました。「主をおのれの喜びとせよ」という聖書の言葉がはっきり聞こえたのです。神さまが夢の中に現れてくれたのだと思った時、わたしは喜びに満たされたのを覚えています。これが、私が神さまに出会った瞬間でした。神さまは本当におられるのだ」という思いになってから、わたしの神さまへの見方が変わりました。それは父が亡くなることによって神に出会ったということです。もしも父が病気せずに亡くならなかったら、私は神さまに出会ってなかったかも知れないということです。神さまは(実に)不思議なことをされます。
きょうは、マタイ10章の最初のところから「人が救われるために」と題して神の御声に耳を傾けたいと思います。
【祈り】
きょう、イエス様は弟子の中から12人を選び、「使徒」として任命する場面が描かれていますね。イエス様は(なぜ)弟子の中から使徒を任命したのでしょうか。イエス様のもとに救いや癒しを求めて集まって来る人々が大勢いたことがわかります。イエス様は集まってくる大勢の人々のことを 「収穫だ」と言われました。「収穫」とは「救われる準備ができている人たち」のことを意味します。しかし、イエス様は仰いました。「収穫は多いが働き手が少ない」、、、、イエス様のもとに、救いや癒しを求めて大勢の人々が集まってきたわけですが、、、イエス様自身に代わって彼らにかかわり、癒し、また彼らが救われるよう助けていく存在としてイエス様は「使徒」として任命したわけです。すなわち、救われる人が (更に)起こされるために主は使徒を任命したわけです。
●マタイ10:1,2
1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。2 さて、十二使徒の名は次のとおりである。
みなさん、「使徒」という言葉には、 「遣わされた者」という意味があります。人々が救われ癒されるために、イエス様から直接に特別な「権威」「権能」を与えられ遣わされた人たちのことを「使徒」と呼びました。
「使徒」とは(わかりやすく言えば)「大使」のようなイメージです。現在多くの国に「日本の大使館」がありますね。大使の発言は日本の国を代表しての発言となります。どうしてですか? 大使は日本国を代表する権威権能が与えられているからです。イエス様は「使徒」を選び任命しましたが、これは、イエス様に代わって人々に神の国の福音をのべ伝え、人々の病を癒し、悪霊から人々を解放し、死んだものを生き返らせ、人々の悩み・思い煩いを癒す「権威」「権能」が与えられました。
主は(何のために)12人の 「使徒」を任命されたのか? それはイエス様を中心に、 「使徒」たちによっても人々が救いへと導かれるためです。2節から4節にかけて、12使徒の名前が紹介されています。時間の関係で、使徒たちの紹介は致しませんが、イエス様が「使徒」とされた弟子たちの名前を見て、みなさんはどう思われますか? ごく普通の人を選んでいるように思えますね。能力的に見てとびきり優れた人を選んではいないようです。そして、イエス様はイスカリオテ・ユダのように主を裏切る人物を(なぜ)「使徒」とされたのだろうと言われる方がいますが、、、イエス様を裏切ったのはユダだけではありませんね。他の使徒たちも主を見捨てて逃げてしましました。主は使徒たちでさえ、裏切る弱さをかかえていることを知っておられたと思います。しかし、彼らを身近に置いて愛されたんですね。イエス様にとって、人の中に る「神を裏切る弱さ」はすべて織り込み済みだったんですね。なぜなら、イエス様は (神に背を向けて) 生きようとする「人」を救うためにクリスマスに生まれて下さったお方ですから。
実は、イエス様を中心にした12使徒たちの働きは、まさに、のちの「教会」の原形となるものです。教会が正式に誕生したのはペンテコステのときでしたが、、、このイエス様と12使徒の姿こそ、後の教会の原形といってよいと思います。そういう意味で、、、マタイの福音書のこの箇所は、現在のわたしたち教会にも通じるところがありますね。
●マタイ10:5,6
5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。6 イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。
イエス様は12使徒たちに対して、「異邦人の道に行ってはいけない」「サマリヤ人の町に行ってはいけない」と仰って、 あたかも異邦人への伝道宣教を禁じておられるような言葉をかけていますが、聖書を読めばイエス様が異邦人への伝道を積極的になされたことは明白ですね。では、なぜ、使徒たちにこのように仰ったのか、ということになります。イエス様はユダヤ人として誕生しています。これは旧約のアブラハムからの流れです。神は人類を救うために異邦人の中からアブラハムを選び、彼を神の民(イスラエル)の祖としました。しかし、残念なことにイスラエルの民は神が願われたように、異邦人を救いに導くことが出来ないばかりか、かえって不信仰の罪に陥ってしまいました。しかし、神はそんなイスラエルを憐れみ、彼らの中に約束の救い主イエスキリストを誕生させました。イエス様はユダヤ人として生まれました。すなわち、イエス様はイスラエルに約束された救い主でも りますから、、、伝道宣教は(まずは)イスラエルであるユダヤ人に対して行われたわけです。
しかし、その結果どうだったでしょうか?ユダヤ人たちはイエス様を救い主として受け入れませんでした。しかし、神は (そのことをも)すべて織り込み済みであり、イエス様を救い主として信じる(新しい神の民で る)クリスチャンを起こし、彼らの中から12人を選び、使徒としての使命を与えて宣教へと遣わそうとされたわけです。ですから、イエス様を中心にした使徒たちの働きは、まさに、現在の私たちキリスト教会の姿と重なります。私たちクリスチャンは (直にイエス様から選ばれ遣わされてはいませんので)使徒ではありませんが、私たち教会もイエス様から宣教命令を与えられましたので、使徒たちに準ずる働きを継承していると言ってよいと思います。
●マタイ10:9,10
9 胴巻に金貨や銀貨や銅貨をいれてはいけません。10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
使徒たちへの伝道宣教の訓練のようですが、宣教の旅にお金や下着、くつ、杖などを( えて)持たずに出かけるようにイエス様から命じられ、使徒たちは出かけたようです。これは (ただただ)「神様だけに頼る」ための訓練だと思います。
神さまだけに頼る訓練と言えば、13年前にイスラエル旅行をした時の「失敗」を思い出します。当時、オランダのアムステルダム空港を経由してイスラエルに入ったのですが、そのとき失敗が起きました。成田発の飛行機が路面凍結のため出発が1時間遅れ、アムステルダム空港に到着し、すぐにイスラエル行きの飛行機に移らなければならなくなりました。そして、イスラエルの空港に到着した時、貨物として預けていた(私たちの)スーツケースがまだアムステルダム空港に ることが判明しました。飛行機の遅れによって貨物の移し替えが間に合わなかったんですね。貨物は3日遅れでイスラエルに届くと言われました。結局、着替え(下着なし)での旅がスタートしました。旅の初めは、モーセとイスラエルの民が40年の旅をした「荒野」を見ました。イスラエルの民も、身の回り品など十分ではなかったはずです。そのような民が「神を頼りに」旅をしたことを思いました。イエス様が使徒たちに「お金や下着など」目に見えるものを持たないで宣教に行かせたのは、自分の力で宣教するのではなく、神に頼りながら神の力で宣教するように教えたのだと思います。
●マタイ10:12,13
12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
町や村で家々を一軒一軒尋ねる歩く時、その家の祝福を祈りなさい、と イエス様は命じられました。そして、使徒や弟子たちが訪ねる家の中には彼らを拒まず、迎え入れてくれる家が 「必ず」 ると、主は言われるわけです。そのように迎え入れてくれる人たちのことをルカの福音書では「平安の子」と呼んでいますね。イエス様はこのような人たちのことを、「救われるばかりの人たち」=すなわち「収穫」とも呼びました。
みなさんも私もそうですが、聖霊の働きによって、また、聖霊を内にいただいたクリスチャンたちによって(みな)「教会」に導かれた人ばかりでしょう。そして、私たちは神と出会い、主の救いに与り、このように新しい神の民である クリスチャンとされ、神を礼拝する者となりました。★私たちも(クリスチャンになる前は)平安の子であり、イエス様が言われた「収穫」だったんですね。、、、そして、きょう、家族に誘われてこの場に来て下さったノンクリスチャンのご主人たちも「平安の子」なのです。お二人が救われるよう、みんなでお祈りしていきましょう。
【祈り】
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