2019.11.19. プチママ日々のこと

 この日は11時半より、参加してくれた二人の子供さんを持つお母さんと、賛美とともに始まりました。曲は『キリストの花嫁』です。この曲は、浜松ホーリネス教会のアドベント第2聖日(12月8日)に、青年会によって賛美されます。YouTubeで聞くこともできるので、曲を聞いてみてください。また是非教会で、青年の賛美を聞かれることをお勧めします。 

『キリストの花嫁』https://youtu.be/yoF9lrSYJtc 

  賛美の後は、みことばの分かち合いをしました。第1コリント10:13のみことばは、教会に通う人にとってはとても親しみがあって、今までも聖書で何度も読んだことのあるみことばですが、試練を乗り越える力をもらい、今回もまた新たな励ましとなりました。 少し長文ですが、利用した文章を紹介します。 

 私たちは人生においてさまざまな試練に遭います。時には耐えられないほどの問題に直面し「なぜ私にこんなことが起こるの?」と尋ねずにはいられないことがあります。人類の歴史を通して多くの先人たちがこの質問に取り組み、さまざまな答えを出してきました。そのような答えはある程度の癒しをもたらしますが、次の大きな問題に直面するとまた同じ疑問を持つようになります。 聖書は「痛みも苦しみもない世界」が来ることを約束しています。新天新地と呼ばれる新しい秩序です(黙示録 21:1 ~ 4)。その完成の時までは「悪いこと」は起こり続けますが、希望が絶えることはありません。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ 16:33)とイエスが語っているからです。そして、聖書が教える法則に従って生きる時、私たちは人生の試練を乗り越えていくことができます。使徒パウロはこう語っています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント 10:13)  

 さて、ここまで人生に起こる試練に対してクリスチャンとしてできることをいくつか論じてきました。まず、私たちには神のことばである「聖書」が与えられています。「聖書」は私たちを養い、導くことができます。聖書的な世界観や考え方が自分のものになってくると、試練に対する姿勢が変わってきます。二番目に、神と「顔と顔を合わせるように」向き合い、静かな時間を過ごすことです。時間に追われるようにではなく、落ち着いて神との関係を深める時、私たちは慰めを受け、気づきが与えられ、知恵が与えられ、癒しが与えられます。これは聖霊なる神のお働きです。三番目に互いに話を聞くことができる2、3名のクリスチャンの「リスニングパートナー」との関係を深めていくことです。お互いの重荷を負い合い、この世の旅路に勝利をおさめて歩む力を得ることができます。

  「みことば」「祈り」「交わり」この 3 つがクリスチャン生活の基礎です。ここに立ち帰れば良いのです。ただ、この基礎をもっと深いレベルで理解し、体験する必要があります。この世においては「なぜ良い人に悪いことが起こるのか」という質問の答えを完全に得ることはないでしょう。しかし、「みことば」に従い生きる時、人は霊的に、そして精神的に成長し、苦しみの中に神の目的を見出すことができるようになります。そして「なぜ悪いことが起こるのか?」という堂々巡りの質問から解放され、「この人生の苦しみの中で『神の栄光』はどのように現されるのだろうか?」という質問をするようになるのです。 他の全てのことがうまく行かないとき、霊的に成長していくプロセスを歩むことは、人にとって生きがいになります。霊的に成長している時は、毎日が新しく感じられ退屈することはありません。しかし、クリスチャン人生は短距離走ではなく、マラソンのようなものです。レースを走り終えることのほうが、どれだけ早く走るか、短距離をどううまく走るかよりも大切です。 ある人は、生まれ持った才能によって、しばらくは自力でクリスチャン人生を送ることも出来るでしょう。またある人たちは、根気と意思の強さで長年走り続けることができるかもしれません。しかし、やがて人間的な力ではどうすることもできなくなり、「燃料切れ」の状態になる時がやってきます。努力すればするほど、クリスチャン人生が難しくなります。意欲を失い、幻滅して、中には信仰を失い悲観的になる人もいます。

 しかし逆に、そこでさらに深い世界に飛び込み、クリスチャンの力である「神の恵み」を見出す人もいます。 「神の恵み」は、受け取る資格がない者が、願う気力さえ失っている時に、神ご自身の好意によって私たちに注がれるものです。それは私たちが何か良いことをしたからではなく、無条件で、一方的に与えられ、決して絶えることがない神の愛によるものです。 サマセット・モームの自伝小説 「人間の絆」を読んだとき、彼のキリスト教理解と描写には「恵み」の側面が欠けているという印象を受けました。小説の中では「神の基準に適 (かな)う」ことが強調され、主人公のフィリップは自分がその基準に到達することができないことを悟り、信仰を捨ててしまいます。私は、クリスチャンと名乗っている人々の中にも「神の恵み」の理解と体験が乏しい方が多くおられることに危機感を持っています。重荷を負い、密かに「自分は罪に定められている」と思いながら暮らしているクリスチャンがおられます。「キリストは自分の罪のために死なれた」と告白はするのですが、自分の罪は赦されていないかのように生きてしまうのです。またある人たちは、天に入るに相応しい行動ができているかどうか、常に不安を抱えながら生きています。 しかし、クリスチャン人生は「神の恵み」で始まり「神の恵み」で終わります。全てのものは消え去りますが「神の恵み」だけは消え去ることがありません。「神の恵み」は人の最も弱いところまで下り、そこから引き上げ、人に新しい命を注ぐことができます。キリストの血が拭い去ることができない罪はなく、キリストの十字架が癒すことのできない傷はありません。私たちが自分のプライドや恥を捨て、「神の溢れんばかりの恵み」によって導かれるならば、神が修復することのできない人生などないのです。「神の恵み」の本質が分かると、それが信じられないほど良いものだということが解ります。それは人間の理性を超えた神の栄光の現れだからです。 出典テキスト 『なぜ良い人に悪いことが起こるのか ―その時クリスチャンとして何ができるか』 著・矢吹ケン 

 いつものように美味しい昼食(炊き込みご飯・ピーマンとペッパーハム、ジャガイモとベーコンのカレーバターソテー・持ちより参加してくれたお母さんから、美味しいパン・きゅうりと大根のあっさり浅漬け・飲み物(野菜はすべて自家製です))の後は、昼食から参加してくれたお母さんも交えて読書会となりました。  

 今回は、11月12日から始めた『聖書が語る妻と家庭』の第2課「新しい被造物」p20~26です。第1課から引き続き、妻となった私たちがたとえどのような過去を背負っていたとしても、イエス・キリストの福音によって新しく造り変えられ新しい人生を歩みだすことができるという、希望のあふれた内容です。 第2課の題にされている「被造物」とは、聖書のみことば「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」(創世記1:27~28)にある、私たち人間を含むすべての生き物のことです。  私たちが新しく造り変えられるのに必要なものは、神の御子イエスを主とする信仰です。ここで、テキストからの文章を紹介します。    “信仰とは何でしょうか。それは積極的な信念や肯定的な考え方とは違います。また、正しい良い行いをするよう熱心に努力することでもありません。信仰は、創造主なる神を知り、その方が遣わされたイエス・キリストを知り、その方の愛と赦しを知って、本人の決断によって神様に信頼することから始まります。信仰とは、信念(belief)ではなく、信頼(faith)なのです。”   聖書の神様を知り、イエス様のことを知り、自分の罪に気づかされると、この自分が抱える心の罪や問題をどうすればいいのか分からず、とても苦しみます。どうしたらよいかわからない罪の中で、イエス・キリストが私の罪を十字架の上で処分してくださったこと、3日後に復活され、聖霊様として生きて私の中におられ、私がイエス様のなかにあることを信じると、完全な平安の中で生きていくことがかないます。 最後にテキストの聖書のみことばを紹介します。 “「まことに、彼(イエス)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼(イエス)は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼(イエス)のうち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:4~5)” “「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)” 教会ブログの「こころのごはん」を、是非読んでみてください。イエス様のこと、自分の罪のこと、イエス様の愛と救いのことがよくわかります。