イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」マルコ6:4
きょう、イエス様はこの故郷伝道において、キリストとして、ご自身の力を十分に示すことがなかったようです。郷里伝道って、どうして難しいのでしょうか。なぜなら、郷里の家族や人々は、幼いときからイエス様のことをよく知っていましたから、イエス様のことを指して「この人は」「この人は」と連発し、主を「人」として見ていたことがわかります。人々は、イエス様が大工をしていたことや、母マリアの子であり、4人の兄弟たちと妹たちがいたこともよく知っていたわけです。
私たちも同様ではないでしょうか。家族に福音を伝えようとするとき、受け取る側では(私たちのことを)ひとりのクリスチャンとしてではなく、ひとりの家族として見ているからです。郷里のお友だち伝道も同じです。お友だちは、私たちを幼な馴染みとして見ているからです。
しかし、きょう、聖書から、主が私たちに伝えようとしている中心は、「郷里伝道の難しさ」ではありません。なぜならば、主が弟子を連れて「ナザレ伝道」に来られたのは今回が初めてではなかったからです。しかも、ご存知のように、イエス様の家族はやがて救われていくからです。母マリアも、弟ヤコブも、ユダもみんな救われて、イエス様が天に昇られてのち、初代教会の中心的な役割を担っていきました。イエス様は「郷里伝道」は難しいと仰いましたが、それでも、福音を伝えられたのです。私たちも、イエス様のように、諦めないで家族や親しい人に福音を伝えていきたいものです。
きょう、聖書から示されたのは、「郷里伝道をしたときの人々の反応、、、その不信仰に(主が)驚かれた」ことです。イエス様は郷里伝道がうまく進まなかった原因は、「彼らの不信仰」にあると言われました。この「不信仰」とは、どういう不信仰でしょうか。それは、人は「頭や心の中で『こうだ』と決めつけてしまうことがあり、それが神を受け入れない障壁になる、ということです。ナザレの家族や人々は、大工のイエスがどうして律法の教師として会堂で教えているのだろう、、、イエスはどうかしてしまったのだろうか、と疑ったわけです。しかし、この「不信仰」は、なにもナザレの人々だけの問題ではありません。クリスチャンになった「私たち」の中にもひそむ問題なのです。私たちはキリストの救いに立つ信仰を頂いているにもかかわらず、目の前に大きな障害が立ちはだかるとき、しり込みしてしまうことがないでしょうか。「こんなに大変なことは、私には到底無理だ」「このような病になって、私は目の前が真っ暗だ」とですね、、、、無理だとあきらめてしまうことがないでしょうか。そのとき、私たちの口から出る言葉は「ダメだ」という諦めです。わたしたちは自分の頭で心で「ダメだ」と決めつけてしまうことがあるからです。そして、主はそのような「わたし」に対して仰います。5節、「何一つ力あるわざを行なうことができない」、、、、
イエス様に対する「私たちの信頼・信仰」によって、主から流れ出る力を頂けるか、頂けないかが決まるのです。私たちは、主の御力を疑わず、主をしっかり信じて参りたいと思います。
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