そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、(中略) そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。マルコ33,34
きょうは、このところから、3つのポイントでお話致します。
第一は、主は、わたしたち一人ひとりと「関わってくださる」お方です。人びとが、病の中に苦しむ者たちを大勢、イエスさまのところに連れてきましたが、主は、その中の一人で、「耳が聞こえず、口のきけない人」を群衆の中から連れ出した、とあります。イエスさまは、わたしたち一人ひとりを招いてくださるお方なんですね。わたしも教会に導かれて25年。当時、直子姉に教会に誘われたのですが、あれは、姉の働きを通して、主がわたしを招いてくださったのだと振り返ります。皆さんもそうではないでしょうか。でも、なぜ主は、わたしたちをそれぞれに招いてくださるのでしょうか。それは、主が私たちと「1対1」の関係を望んでおられるからに他なりません。あなたは、イエスさまの救いを「1対1」の関係の中で信じているでしょうか。すなわち、「イエスさまは、わたしたちの救いのために十字架で死んでくださいました」と証しするよりも、「イエスさまは、(わたしの救いのために)十字架で死んでくださいました」と証し出来るのが素晴らしいわけです。なぜなら、それは、イエス様と私とが「1対1」の関係になっているからですね。私たちは自らの救いを確信するためには、主と1対1の関係になることが必要なのです。主は、耳が聞こえず、口がきけない人と、1対1で向き合うために「連れ出された」のです。
第二に、イエス様は、私たちの悲しみ苦しみに寄り添って「とりなして」くださるお方です。主は、その人の両耳に指を差し入れ、つばきをして舌に触れ、天を見上げ、深く嘆息した、とあります。「深く嘆息して」というのは、ギリシャ語原典では「うめく」という言葉と同じ言葉が使われています。ローマ8:26にあるように、耳が聞こえず、話すことができない彼の「うめき」を、主はご自身のものとされて、深くうめいてくださるお方です。イエス様は、私たちの悲しみや苦しみをよくご存知であり、憐れんでくださいます。とりわけ、主は、私たちが創造主から離れ、罪の中に死んだ状態であることに深くうめいておられます。そして、罪の中にいる私たちが、再び、神さまとつながることが出来るようにと、なんとイエス様ご自身の命を投げ出してくださって、わたしやあなたの罪の身代わりに十字架で死んでくださり、その罪を完全に処分してくださったのです。ですから、主の十字架の死という究極の「とりなし」によって、それを信じる者は、神の子どもとして歩めるのです。
第三に、イエス様は「エパタ(開け)」と宣言してくださいました。すると、聞こえない耳が聞こえるようになり、舌のもつれが取れて話せるようになりました。イエス様のお言葉には力があるんですね。主は死んだ者をも生き返らせることがお出来になる方です。何よりも、主は十字架と復活によって、罪の中に死んでいた「あなた」や「わたし」に新たな命を与え、神につながる者としてくださいました。どんなときにも、主の力ある言葉=み言葉に生きる者とさせていただきましょう。
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