いのちの道に歩む

そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。マルコ9:7

 みなさん、中学生、高校生は校内テストの時期ですね。学生のときを振り返って、「もっと勉強しておけばよかったなあ」と思いませんか? みなさん、楽をして、テストでいい点数を取ることは「まず無理」ですね。イエス・キリストを救い主として信じる「信仰の世界」においても同じです。楽をして天国に入ることはできません。マタイ7章に、「狭い門からはいりなさい。、、、いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあるからです。「楽をして」というのは、キリストを信じます、と言ったらそれで天国なんだから、あとはどんなに悪いことをしたって、キリストが救ってくれるんだから勝手に生きたらいいんだ、と考える人のことを指します。しかし、残念ながら、神様を無視して、自分の好きなように生きるならばそれはキリストを信じる信仰ではありませんね。イエス様は、「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、、、、ついて来なさい」と仰いました。わたしたちが、イエス様の救いを信じて、主の救いにあずかり、神の子として、いのちの道を歩むためには、自分中心の思いではなく、神様、イエス様の思いによって生きようとする姿勢が必要なのです。

 8章終わりの出来事から六日目に、イエス様は、ペテロとヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登り、彼らの前で「栄光の姿」を現されました。それは、神の御子としての「栄光の姿」であって、十字架のあと復活されて天にあげられた「栄光の姿」の予表でもありました。イエス様は、なぜ、弟子たちの前で「栄光の姿」を示されたのでしょうか。それは、ピリポ・カイザリヤに向かう途中、ペテロがイエス様を「あなたはキリストです」と告白した時、イエス様がやがて受けられる十字架の死と復活について(初めて)弟子たちに語りました。さらに、「自分の十字架を負ってついて来なさい」と告げたことで、弟子たちが心に深い苦しみと失望を感じたことを主はご存知だったのです。それゆえ、主は弟子たちに、十字架を通して「栄光を受ける」天の御国の確かな希望と祝福を示してくださったのです。 

 しかし、ペテロはそのことが理解できず、イエス様がエリヤとモーセと語り合っている姿を見て喜び、イエス様たちに天幕を作ります、と提案しました。ペテロは、やがてユダヤの政治的な王となるイエス様の栄光の中に「いつまでも留まりたい」と思ったのでしょう。やがて、雲の中から「「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」との、主の声が聞こえました。「彼の言うこと」すなわち、「イエスの言うことを聞きなさい」とは、「自分を捨て、自分の十字架を負って、、、、ついて来なさい」との、イエス様のお言葉です。イエス様を主と信じる「あなた」や「わたし」は神の子どもとされ、主が見せられたように、やがて「栄光の姿」に変えられる約束をいただいていますが、地上にあっては「イエス様、神様の御思いを仰ぎながら歩むことが大切です。それが、まことの「いのちの道に歩む」生き方だからです。