主を受け入れよ

「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。マルコ9:37

 イエス様一行が、ピリポ・カイザリヤからカペナウムに戻って来られたとき、主は弟子たちにお尋ねになりました。「(あなた方は)道々、何について論じ合っていたのですか。」 弟子たちは答えないで黙っていました。なぜなら、「だれが、(弟子たちの中で)一番偉いのか」について話していたからです。主はおすわりになり、12弟子を呼んで言われました。 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

 弟子たちは、やがてイエス様がユダヤの王様になったときには、自分が一番偉い大臣として(主に)認めてもらいたいと考えたようです。彼らは、主がすべての罪人の救いのために十字架で死なれるなどとは夢にも思いませんでした。また、自らが一番であって、(弟子の中の)だれにも負けたくないという、、、、わがままな自己中心な罪のためにも、イエス様が十字架で身代わりに死なれるとは想像もしていませんでした。「だれにも負けたくない」「いつも褒(ほ)められていたい」「いつも目立ちたい」「一番でいたい」と思うのは、弟子たちだけではありませんね。わたしたちにも同じように「罪深い思い」があります。幼い子どもたちが一つの「おもちゃ」を取り合うことがあります。さすがに大人になって「おもちゃ」の取り合いはしませんが、わたしたちは大人になっても、しばしば他人と自分を比べることがあります。そして、自分より人が「すぐれて」いると思うと、嫉妬して腹を立てたり、自分をよりよく見せようとしたりするわけです。

 しかし、イエス様はそのように考える「弟子たち」に、そして、「あなた」や「わたし」に対しても、次のように言われました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 「しんがりとなりなさい」とは、「最後尾に立ちなさい」ということですね。、、、、すなわち、他人に勝ちたいと思うときは、むしろ、「負けなさい」と仰いました。別のことばで言い表すならば、「あなたが『握っていて決して離そうとしない(自己中心の)思い』を手放しなさい」ということです。そして、それを手放すことで、主から「大きな祝福」を受けることになると言われるわけです。わたしたちは、イエス様を信じ受け入れて、クリスチャンとされた後にも、他人を「赦す」ということが苦手ですね。なかなか「赦す」ことが出来ない、、、そのような自分自身の姿に悩んだことがあるでしょうか。しかし、主は「あなたが握っていて決して離そうとしない」頑なな思いを手放しなさい」と仰るのです。そうすると、主が、他人をなかなか赦せなくて思い煩う「あなた」をその思いから解放してくださるのです。

 主は、弟子たちの前で幼子を抱き寄せられ、「だれでも、幼子のひとりを受けきれる者は、わたしを受け入れるのです。」と言われましたね。この当時、ユダヤ社会では子どもや女性を軽んじる背景がありました。弟子たちにとって、決して受け入れたくないものを(もしも)受け入れるならば、「主を受け入れる」ことであり、すなわち、主のまことの弟子となるのです。