子どものようでなければ

イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。マルコ10:14

  きょうは「子ども祝福式」が礼拝後にあります。主が与えて下さった子どもたちが、イエス様を信じて健やかに成長するようにぜひ祈ろうじゃありませんか。本日の「み言葉」は、子ども祝福式のときに必ず読まれる箇所ですが、きょうは、ここから語られる神様の御声に耳を傾けましょう。

 「子ども」って可愛いですね。親にとっては、子どもが中高生になっても、大学生になっても、やはり可愛いものです。皆さんにとって、「子どもは可愛いなあ」と思うときって、どんなときですか。いろいろな答えがあるかと思いますが、何といっても「子どもが可愛い」と思うときって、「こんな親でも信じて頼ってくれる」と思うときではないでしょうか。子どもって、幼ければ幼いほど、親にしがみつくものです。また、可愛い子どもにしがみつかれると、親というのは、さらに子どもが愛(いと)しくなるのです。幼い子どもは、どうして親にしがみつくのでしょうか。それは、親にしがみついていると安心するからです。「親はボクのことを、ワタシのことを、全面的に守ってくれる」ことを知っているからです。 イエス様は弟子たちに言われました。「子どものようでなければ、だれも神の国に入ることができない。」イエス様は、まさに、あなたやわたしに、「子どもが親に信頼してしがみつくように」、創造主であり、魂の親である神を信じなさい、と仰いました。

 聖書によれば、ユダヤ人の会堂で(おそらく)礼拝での御用を終えたイエス様に祝福してもらおうと、親たちが子どもたちを連れてきたとき、弟子たちがそれを叱った、と記されています。弟子たちは、おそらく、子どもはイエス様の前に出るのに「ふさわしくない」と考えたのでしょう。当時、ユダヤでは女性や子どもの存在は軽んじられていたようです。イエス様に声をかけられ召された弟子たちにとって、「律法を十分に知らない子どもたちが、イエス様のところに来る資格などない」くらいに考えたのかも知れません。しかし、もしもそうだとしたら、主のもとに来る「資格」って何でしょうか。弟子たちも、わたしたちも、実は神に救われる資格など到底ない、欠けだらけの罪人だからです。でも、イエス様は罪人を招くために来てくださいました。ですから、わたしたちが主の前に出るとき、なんの良いものも、飾りもいらないのです。ただ、子どもが親にしがみつくような、神への信頼だけが必要なのです。子どもは何も持たない存在ですからね。親への信頼だけで、ほかにあれこれ考えることもないかも知れません。

 わたしたちも、クリスチャンとして、いつでもどんなときでも、イエス様を見上げて信頼して参りましょう。