人の子は仕えるために

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。マルコ10: 45

 マルコ10章32節には、エルサレムに向かうイエス様と弟子たちの姿が描かれています。イエス様は弟子たちの先頭に立って進みながら、弟子たちに、「ご自身がエルサレムで十字架にかけられて死なれる」話をします。もちろん、弟子たちは不安に感じても、主が何を仰っているのか理解できなかったと思います。そして、ヤコブとヨハネの2人が、イエス様に尋ねるわけです。35節、37節、「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

 ヤコブやヨハネは、自分のことばかり考えていました。自分の立場や地位だけを考えていたのです。この2人だけではありませんね。弟子たちもみな自分中心でした。そして、この姿は何を隠そう「私たち自身の姿」ですね。人は2000年前も、今も変わらずに、自分中心の罪の性質があるのです。私たちも、すぐに他人と比べる性質があります。そして、他人に劣りたくない負けたくないと思う傾向がありますね。他人が自分よりも優っていることを妬む性質があるからです。しかし、ここに一大逆転の出来事が起きるわけです。

 イエス様がすべての人の罪を赦すために、罪人の身代わりに、神の御子であるお方が(その身に人類すべての罪を負われ)代わりに十字架で死んでくださったのです。このことにより、キリストを信じる者はすべての罪を赦され、神の子どもとされ、天国への切符を頂くことができました。イエス様が(ご自身の命をもって)人の罪をすべて消し去り赦してくださったことで、主を信じる「あなた」や「わたし」は、罪が完全に赦されました。

 イエス様の十字架での贖いを信じる「私たち」の価値観は、主を信じているからこそ、180度の方向転換を致しました。これまで、弟子の中で誰が一番偉いかに関心があった弟子たちは、主を信じてのちは、そこから解放され、神さまイエス様を中心にして物事を考える人々になりました。「私には金銀はない。しかし、ナザレのイエスキリストの名によって歩きなさい」というほどに、弟子たちの価値観は変わったのです。そして、あなたやわたしも同じです。かつて、救われていなかったときには「人に仕えられたい」と願ったことが、今は、主が示されたように、神に仕え、人に仕えるものへと変えられている。人によって「人に仕える」思いには差はあると思いますが、私たちは、自分自身が、イエス様によって罪赦され救われたことへの「喜び」にあふれればあふれるほど、「仕えられた」イエス様の思いをわたし自身の思いとすることが必ず出きるようにされるのです。 

 それは、「仕えられたい」と思う罪を、イエス様が根こそぎ消し去ってくださったからです。わたしたちは、その信仰に立つとき、神に「仕え」、人に「仕える」ことが出来るようになるものです。今年もクリスマスが近づきました。主が願われたように、神に仕え、人にも喜んで仕えることが出来る「わたし」になりたいと思います。