誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。マルコ14:38
きょうは、イエス様のゲッセマネでの祈りの場面です。きょうは、ゲッセマネでのイエス様の祈りから学ばせていただこうと思います。
主は弟子たちに「誘惑に陥らないように」と仰いました。皆さん、この「誘惑」とは一体何でしょうか。主が祈られている間、「目を覚ましていなさい」と命じられたにもかかわらず、弟子たちは眠りこけてしまいました。「心は燃えていても、肉体は弱いのです」と主が言われたように、私たちは肉体の弱さから、様々な誘惑に陥ります。目を覚ましていないと言われても、あまりに眠ければ誰でも眠ってしまうでしょう。食欲も同じです。食べないように我慢しなさいと言われても、あまりにもお腹が減ればやはり食べてしまいます。性的な欲求に対してもおそらく同様でしょう。そればかりか、ゲッセマネでの祈りが終わると、イエスさまが祭司長たちが差し向けた者たちに捕らえられ、そのとき弟子たちは逃げ出してしまったのです。なぜ、逃げ出してしまったのですか。それは、死にたくないという恐れ(誘惑)があったからです。
ところで、イエス様はどうだったでしょうか。主は祈るためにゲッセマネに来た時、「深く恐れもだえ始められた」とあります。また、ペテロとヤコブ、ヨハネだけを選ばれて祈る場に進まれたとき、地面にひれ伏し、「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と主は祈られました。このとき、主は十字架につかれることを恐れていたのです。それは、人類一人ひとりの罪の身代わりに罪人として死ぬこと=すなわち、父なる神様と断絶することを恐れたのです。主はこれまで父なる神さまと(一体でしたから)しっかりと結ばれていたわけですが、十字架によってそれが断絶することを恐れたのです。この恐れはサタンからの「誘惑」です。イエス様による救いが成就しないようにと、サタンが必死に主を誘惑したのです。しかし、主はその誘惑に勝利されました。主は十字架につかれたのです。
イエス様はどのようにしてサタンの誘惑を退け、勝利されたのでしょうか。主がゲッセマネで祈られた「祈り」は、このように続きました。36節 またこう言われた。「アバ、父よ。、、、、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 それは、十字架という「試練」を前に、イエス様が父なる神から目を離さなかったからです。神さまに向かってしっかりと祈り、神の御旨を知ろうとしたからです。一方、私たちはどうでしょうか。例えば、激しい怒りを抱くとき、神様から目を離さずに祈ることができるでしょうか。下手をすると、怒りに任せて自身の怒りを鎮めるために「恨みを込めた祈り」をすることはないでしょうか。このようなとき、私たちは神さまに祈っていない、、、祈ろうとしていない自分に気づかされるのです。私たちは、サタンの誘惑に陥らないよう、いつでも神さまに向かって祈り続けようではありませんか。
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。」
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