そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。マルコ14:72
きょうは、「ペテロがイエス様を3度否んだ」場面から、なぜペテロが涙を流したのかを見て参りましょう。 ペテロは主のお言葉「鶏が二度鳴く前に、あなたは私を知らないと三度言います。」を思い出して、それに思い当たったとき泣き出した、とあります。皆さん、ペテロはなぜ泣いたのでしょうか。
そのきっかけとなったのは、最後の晩餐の後、オリーブ山に向かうとき、主が仰った「あなたは私を知らないと三度言います」との預言がその通りになったとき、ペテロは自身の「愚かさ」に気づかされたのだと思います。「愚かさ」とは、自信たっぷりの、傲慢な自分の姿のことです。主がこのあとゲッセマネで起こる出来事を予期しながら、「あなたがたはみな、つまずきます」と仰ったときも、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と自信を持って言い切ったわけです。しかし、三度目に「主を知らない」と言ったそのとき鶏が鳴いたのを聞いて、ペテロは自身の中にある「自信過剰な」「傲慢さ」を主にあらわにされ、自らを恥ずかしいと痛切に感じたのです。でも、ペテロがそのことで泣いたのではありません。 ペテロは、そんな傲慢な自分さえも主が赦して下さったことが分かったからです。主がそんな傲慢な自分のためにもゲッセマネで祈っていて下さったことが分かったからです。
ルカ22章60, 61節には、ペテロが三度目に「主を知らない」と言ったとき、「彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。 主が振り向いてペテロを見つめられた。」とあります。 嘘をついたら地獄に落ちても構わないと誓いを立て、「イエスなど絶対に知らない」と言ったペテロの姿を、連行されていく主が(振り向いて)見つめられたわけです。ペテロは恥ずかしかったでしょうね。しかし、ペテロは気づいたのです。なんと主がペテロを見つめる目が慈愛に満ちていたことを。「わかっているよ、ペテロ。弱いあなたのために祈っていたよ。私はあなたを赦している」とですね、主はペテロを見つめたわけです。こんな愚かな自分さえも、主は赦し愛してくれていることを知ったとたん、ペテロは泣き崩れてしまいました。
あなたには、ペテロが涙を流したのと似たような経験がありますか。実は、私たちもペテロと同様に「傲慢な」ところがあります。例えば、よくあることですが、あなたは車に乗るとき祈りますか。私たちは結構祈らずに乗ることが多いのではないでしょうか。しかし、事故を起こしそうになったけれど守られた、というときには祈りの大切さを実感します。私たちには(神さまに祈らなくても)自分で何とかできる、という傲慢さがあるのです。しかし、そんな私の「傲慢な罪」のためにも、主はご自身の尊い命を差し出して下さいました。主は、「あなた」を「わたし」を愛しておられます。私たちは、そんなイエス様の愛に応えて参りたいと思います。
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