イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。マルコ15:39
きょうは、イエス様が息を引き取られる場面を通して上からの気づきをいただきましょう。マルコの福音書では、イエス様が息を引き取られたとき、十字架の前にいた「ローマ百人隊長」が語った言葉を大変強調しているように思います。 なぜなら、百人隊長が語った言葉=「この方は、まことに神の子であった」は、実に、彼の信仰告白だからです。
みなさん、百人隊長は、どうして信仰告白をすることができたのでしょうか。彼はローマ人でしたから異邦人ですよね。イスラエル・ユダヤ人からすれば救われるはずがない罪人の「異邦人」が信仰告白をしたわけです!! ルカの福音書には、十字架につけられた二人の犯罪人のひとりが、やはり信仰告白をしている場面を残していますが、同様に、十字架のイエス様を見て「異邦人の百人隊長でさえも信仰告白をして救われていく」様子を、マルコ福音書は残したかったのだと思います。
さて、百人隊長はどうして信仰告白できたのか。なぜなら、百人隊長は、十字架のイエス様の様子を誰よりも注意深く、つぶさに見ていたからだと思います。実は、彼がイエス様を十字架につける「最終責任者」=すなわち、イエス様を十字架で殺した人物だったからです。もちろん、二人の犯罪人の様子とイエス様の様子とは、まるで違っていたと思いますが、イエス様を見れば見るほど、主の中には「清さ」しかないことを、百人隊長は見たのです。そのような罪なき者を、責任者とは言え「殺さなければならない」わけです。当然、百人隊長の中に「罪悪感」が生じたことでしょう。悔い改めの思いが起こったに違いありません。そして、主が息を引き取られたとき、思わず、「この方は、まことに神の子であった」という信仰告白をしたのだと思います。
実は、わたしたちが信仰告白する場合にも、百人隊長が告白したのと同様に、「この方は(すなわち)イエス様は、まことに神の子です」と告白したいものですね。この百人隊長のように信仰告白をするためには、わたしたちはイエス様と「1対1」の関係になって、主にしっかりと「つながる」必要があります。1対1でというのは、イエス様が、わたしの罪の身代わりに十字架で死んでくださったことが分かるということです。すなわち、主の十字架の「死」と、自分の「死」(わたしも罪に死ぬということ)をぴったりと重ねることができるということです。みなさんはいかがでしょうか。 イエス様は死んで三日の後に復活されました。この主の復活を(わたしたちが)大いに喜び感謝するのはなぜですか。なぜなら、主の復活は、「あなた」や「わたし」の完全な赦しを宣言してくださっているからです。すなわち、主があなたの罪を十字架で引き受け、完全に滅ぼしてくださいました。主よ、心から感謝します。
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