まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。Ⅰコリント1:31
人はとかく褒められると嬉しくなるものですね。しかし、褒められ過ぎるときには注意が必要です。なぜなら、人は褒められると天狗になる傾向があるから厄介(やっかい)なのです。人にはプライドがあって、自分をより良く見せようと背伸びする性質があります。しかし、自分を誇りたくなることの中に「人間の弱さ」や「自らの弱さ」を見出すことが出来る人は幸いです。なぜなら、その人は神と出会うからです。
コリント教会の中には、当時、「パウロ支持派」「アポロ支持派」「ペテロ(ケパ)支持派」などいくつか「分派」が存在していたことが分かります。そして、互いのグループが、それぞれに自己主張をして、互いに譲らないことがあったのでしょうか。パウロは教会の中に生じた分派によって、教会が一致しないことを憂慮して、コリント教会に手紙を書きました。私たちが自慢したり、他人から褒められたいと思ったりするのは、私たちが「罪人」だからです。これは、最初の人類アダムとエヴァに罪が入り、神の前から姿を隠したときから何ら変わりません。聖書によれば、彼らは、神様を頼らないで、自分たちの中に「力」を求めたのが罪の始まりでした。世にあっては、人は神を認めず、自分の中に「力を」求めます。これは、当時のコリントの町の人々や教会の人々の考え方とよく似ているように思います。学校においては学力で他人より優(まさ)りたいと願いますし、社会に出ても出世を願って仕事をするものです。人は「力」を持ちたがるんですね。
さて、それが教会の中にもあるとしたら怖いことだと思いませんか。しかし、コリント教会でそれが起こったわけです。人が神様についていたら全く問題がないのですが、神さまから離れて人を見、人についてしまうから問題なのです。信仰の世界でもそうですね。人が神様にしっかりつながっていたら問題ないのですが、神さまに目を留めるべきところを、人に目を留め、人に頼ってしまうから問題なのです。
パウロは、そんな(あなたに)どのようなアドバイスをしているでしょうか。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。」(26~28節)パウロは言いました。「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。」 すなわち、あなたがなぜ救われたのかを考えてみなさい。神はあなたの中に何か良いものを見つけて、そのことによって救って下さったのでしょうか。そうではありませんね。何の良いところもない罪深い「私」を、神は御子キリストを十字架につけられることによって一方的に救って下さいました。ただ、私は、自分の中の罪深さを神の前に認め、悔い改めただけなのです。しかし、この世においてどんなに頭がよくて、権力があり、身分が高かったとしても、自らの罪を認めることが出来ないならば救われないのです。彼らは、自らの力を求め、自らを誇るだけだからです。私たちは、自分の力で自分を救うことが出来ないことを神の前に認めましょう。そして、救い主イエス・キリストを信じましょう。
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