主にあって愚かな者に

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものではないものがあるのですか。Ⅰコリ4: 7

 パウロは、コリント教会の人々に向けて、10節で「 私たちはキリストのために愚かな者です」と語っています。言い直せば、「信仰とは、キリストを信じることで愚かにされることだ、とパウロは語りました。どうして、パウロは(コリント教会の人々に)このように言ったのでしょうか。それは、コリントの人々が(キリストを信じて)逆に賢い者となっていたからです。ここで言う「賢い者」とは、自分が知者だと思い、神さまの助けを必要としない者のことです。パウロがコリント教会を設立して去った後、様々な指導者が立ち寄り、(当初パウロが教会の人々に伝えた)福音がゆがめられ、いつの間にか神さまを頼る生き方から、自分自身の知識におごり、経験に頼って生きるようになってしまったからです。その結果、教会の中にはある変化が生じてきました。教会の中の「不一致」です。教会内に分派ができ、人が人を「裁く」ようになってしまいました。

 私たちはどうでしょうか。さすがに、私たちの教会はコリント教会のそれとは違う、と思うかも知れませんが、しかし、パウロが憂慮した、、、当時のコリント教会に起こった悪しき「変化」が、今の私たちの教会に「あるのか」「ないのか」を点検することは大事なことです。一つ例を挙げるならば、人が人を「裁く」ことです(1コリ4: 4,5)。コリント教会では、自分たちの都合がいいように、それぞれの指導者の名を立てながら、自身の正当性を主張して相手グループを「けん制」していたようです。そこには「人が人を裁く」ことが生じてきたわけです。パウロは言いました。「私をさばく方は主です。 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。」人が人を裁いてはならない。人を裁かれるのは唯一、神さまだけです、と彼は旧約聖書から「みことば」を引用しながらコリントの人々に訴えたわけです。 

 今の私たちの教会においても、分裂分派にまでは至っていないにせよ、今の教会の中においてさえも、(私たちは罪人の集まりですから)、人の噂が高じて、批判したり、裁いたりすることがあるかも知れません。しかし、パウロがコリント教会に手紙で伝えたように、人が人を裁くところに教会の「不一致」が生まれてきます。神がモーセに授けた律法にも、イエスさまが(最後の晩餐で)語られた「みことば」にも、共通するのは「あなたがたは互いに愛しなさい」ということです。裁かれるのは神です。もしも、教会の中で問題があったとしたら、牧師や役員がその問題にあたるのが「聖書的」です(マタイ18:15~17)。そして、あとは神に委ねていくことが大切なのです。

 そんな私たちに出来ることは、高慢な自分に気づくとき、人を裁く自分に気づくとき、また、(人と自分を分けて)自分を卑下する自分に気づくとき、神の前に出て「悔い改める」ことです。なぜなら神は、そのような人の罪を赦すために、神の独り子をお与えになるほどに「あなた」や「わたし」を愛して下さったからです。私たちは神の前に(自分が)いかに小さく、愚かな者なのかを気づかせていただきながら宣教に遣わされて参りましょう。