新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。Ⅰコリント5:7
コリント教会には、非常に才能豊かな人たちがいたようです。神から戴いた才能を(あたかも)自分で得たかのように考え、そのことを誇る人々がいたということです。私たちにとって、これは関係ないと思うでしょうか? 関係ないように思えても、実は、私たちも「誇り高ぶる」ことがある者なんですね。他人から「素晴らしいわね」と褒められれば、、、誰しも、「いいえ、そんなことありません」と謙遜しながら答えると思うのですが、、、でも、誰であっても内心嬉しく思うものです。 しかし、逆に自分が貶(けな)されたり、過小評価されたりすると、「他人は自分のことが分かっていない」と、腹を立てるのが「私したち」ではないでしょうか。私したちはいつも「高ぶる」要素をかかえています。
「高ぶり」「高慢」のやっかいなところは、悔い改めに時間がかかるところかも知れません。神様のことを忘れ、自分自身を誇りとする私たちは、、、その罪深さに気づかされて(主の前に)悔い改めるのに時間がかかります。コリント教会の人々は、、、この悔い改めが出来ないでいた人たちです。私したちは、そのようなことがないようにしたいと思います。私たちが「高ぶり」に陥るとき、聖霊によって、いち早く、自らの汚れ=その罪深さに気づかせて頂き、神の前に「悔い改める」ことが大切ですね。
パウロは(かつて)イエス様が言われたように、「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。」と、コリントの人々に伝えました。パン種とはイースト菌のことです。わずかなパン種でも、粉の塊全体を膨らませてしまうように、人の「高慢」「高ぶり」が、その人の生涯を駄目にしてしまうからだと、パウロは言いました。そして、そこから脱出するために、パウロは「古いパン種を取り除きなさい」と言いました。古いパン種を取り除くとは、すなわち「悔い改める」ことです。神の前に出て、自分自身の高ぶりをお詫びして、自分の中に「神さまの力」を無視して軽んじるところがあったことを告白し、「神様、あなたなしには何ひとつなし得ない私です。」と、祈ること。これが悔い改めですね。
そのように悔い改めをする「あなた」や「私」に、主はパウロの口を通して(7節後半で)、「あなたがたはパン種のないものだからです。」と語って下さいました。神に悔い改める「あなた」や「私」に対して、神様はいつも仰るんですね。「あなたはパン種がないものです」すなわち、「あなたの罪は赦されています」なぜなら、「イエス様があなたの身代わりに十字架で死んでくださり、全ての罪を帳消しにされ、あなたの罪を赦して下さったからです。」ペンテコステのとき、弟子たちが聖霊で満たされましたね。みなさん、聖霊に満たされるためのポイントは「悔い改め」です。私たちもいつも聖霊の満たしを戴いて、礼拝を捧げたいものですね。
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