愛は教会を建て上げる

「知識は人を高ぶらせ、愛は教会を建て上げます。」Ⅰコリ8:1(英語リビングバイブルより)

  「もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉をたべません。」(13節)と、パウロが語っています。皆さんが、今後、いっさい肉を食べないとなったらどうでしょうか。焼肉も食べられず、「さわやか」にも行けなくなるとしたらどうでしょう。しかし、ここでパウロが語っているのは、「もしも肉を食べることで兄弟を躓(つまず)かせるなら、今後いっさい肉を食べない」と言っているわけです。肉を食べることで兄弟を躓かせるとは、どういうことなのでしょうか。

 コリントの町では、異教徒の神殿に犠牲の肉が供え物としてささげられた後、市場で売られることが多かったのだそうです。その偶像にささげられた肉を食べることが「罪」だと考えるコリント教会の人たちと、偶像の神などいないので肉を「恐れる事はない」と考える人たちがいて、それが混乱の原因となりました。実は、コリント教会というのは「異邦人教会」でした。異邦人と言うのは、ユダヤ人以外の人々のことを言います。当時、ユダヤ人クリスチャンで成り立っていたエルサレム教会はキリスト教会の総本山として、異邦人クリスチャンからなる教会をキリスト教会として受け入れようとしませんでした。すなわち、クリスチャンになるためには、まずユダヤ人になるべきだと、真剣に主張していたわけです。しかし、パウロが熱心に訴えたことにより、エルサレム教会は(条件付きで)異邦人クリスチャンを正式に受け入れたのです。その条件とは、「神殿にささげられた肉を食べない」でした。すなわち、神殿に捧げられた肉を食べれば、それは「罪」に当たると決められてしまったようなものです。皆さんは、このエルサレム会議で決められた条件についてどう思いますか。決して「正しい」とは思わないでしょう。皆さんだったら、おそらく「それは聖書的ではない」と言いたくなるでしょう。

 それに対して、パウロは「愛による配慮」の必要性を教会の人々に伝えました。もちろん、「偶像」は人が勝手に作り出したものです。そのことを十分理解していたならば、そこに供えられた肉を食べたとしても、何ら問題に感じないかも知れません。しかし、なかには「弱い人」がいるかも知れません。洗礼を受けたばかりで、教理への理解が不十分な人がいるからです。洗礼を受ける前までは(ごく自然に)偶像に供えられた肉を食べていた人が、洗礼を受け、偶像に供えられた肉を食べることは「罪」だと言われたらどうでしょう。彼らの心の中に葛藤が生じるのではないでしょうか。

 私たちが聖書のことを聖霊に導かれ、「正しく」受け止めることは大切です。しかし、まだクリスチャンになったばかりの人に対し、「正しい」からと言って、教理を無理やり押し付けたり見下したりしないよう気をつけなければいけません。「知識は人を高ぶらせる」とある通りです。私たちには「愛をもって」寄り添う必要があります。「真に教会を建て上げるには」愛が必要なのです。