人生の目的

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。Ⅰコリ9:23

  人は何のために生きるのか、、、、皆さんは考えたことがあるでしょうか。世に存在するものには、そのすべてにおいて「目的」があるものです。例えば、人間が作り出すものは、例外なく、そのすべてに「目的」がありますね。鉛筆やペンは書くためにありますし、椅子は人が腰かけるために作られます。人が作るものには必ず(その)目的があるんです。同様に、人間にもその存在目的があるはずです。それは、人を造られた神さまに尋ねるしかありません。聖書には、人が「神のために」生きるのだと教えてくれます。

 パウロは、コリント教会のクリスチャンたちに向けて、「クリスチャンとして生きる目的は、福音を伝えることだ(Ⅰコリ9:23)」と語りました。なぜ、パウロはコリント教会の人々に「クリスチャンの生き方」を教えようとしたのでしょうか。 それは、コリントの人々がキリストを信じながら、その一方で、教会の中に分派を作って教会内の一致を妨げたり、不品行を行ったり、それを咎(とが)めることもしなかったりで、教会が混乱していたからです。彼らは、大切な「クリスチャンとして生きる目的」を見失っていることを示して、励ましの言葉を送ったわけです。

 パウロは、コリントの人々なら誰でも知っているスポーツ競技を例に出しながら、クリスチャンの生き方をわかりやすく説明しています。当時のコリントやアテネなどでは、大きなスポーツ大会が4つあったと言われています。現在のオリンピックの発祥はギリシャであり、その当時もオリンピックは行われています。その当時は、陸上競技やボクシング、レスリングなどが行われていましたが、参加者は彼らの名誉にかけてひたすら優勝を目指して努力した様子が分かります。名誉をかけて、というのは優勝しても与えられた賞は(やがて朽ちる)「月桂樹」の冠だけだったからです。選手は自らの名誉のために、「あらゆることについて自制した」ことにパウロは触れています。黙々と禁欲的に運動を継続したり、食事コントロールをしたんでしょうね。今も昔も同じですね。

 同様に、クリスチャンも名誉の「冠」を手に入れるために走り続けるものだ、とパウロは語りました。彼は名誉の冠のことを「朽ちない冠」と表現しています。クリスチャンならば誰もが手にすることができる朽ちない冠とは「天国」であり、「永遠のいのち」のことですね。コリント教会の人々には問題がたくさんありましたが、救われた者ならば必ず手にすることができる「朽ちない冠」という名誉のために、地上のクリスチャン人生を走り続けるべきだと励ましたのです。

 私たちクリスチャンにとって、この「朽ちない冠」はどうして名誉なのでしょう。なぜなら、賞を与えられる値打ちのない者が、神から一方的な恵みとして「キリストの救い」に与っているからです。スポーツ選手でさえ、自らの名誉をかけて優勝を目指して「自制」するのだから、「コリントの人びとよ、神の一方的な救いに与(あず)かった貴方たがたも、その名誉にかけて「自制するべきだ」と強調しました。このメッセージを、今朝、ぜひ、神さまから「私自身への」ノックと受け取らせて頂きましょう。