神への礼拝は

ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。Ⅰコリント11:28

 きょうの箇所はどんなときによく耳にする箇所ですか? そう、聖餐式に読まれる聖句です。聖餐式は洗礼式と並んで、教会では聖礼典として重要視されてきています。聖礼典とは、目には見えない神の恵みを儀式を通して目に見える形にしたものです。洗礼式では全身を「水」に沈め、また、浮かび上げりますね。水に沈むとは、キリストが十字架で死んで葬られたことを、そして、浮かび上がるとは主が復活されたように自分も(キリストのように)復活する恵みに与(あずか)っていることを表します。聖餐式で「パン」をさくとは、十字架でキリストのからだが割かれたことを意味し、「ぶどう酒」とは、主が十字架で流された血潮を表していますね。このように、洗礼式も聖餐式も、どちらにも共通するのが、キリストを信じる「わたし」が、キリストの体と「ひとつに」されたことを表明することです。そして、これはキリストがそうされたように、キリストを信じる「わたし」が、神に自分自身を捧げる意志を表明することでもあるんですね。そして、キリストによって救われて永遠の命に与っていることを、わたしたちが喜び感謝することです。これは、まさに、私たちが毎週捧げている礼拝と全く同じです。

 27~29節には、「ふさわしくないままで」、「吟味して」、「わきまえないで」という言葉が繰り返し使われています。パウロは主の聖餐の仕方に問題を感じたようです。彼はこの手紙の中で、聖餐式の重要性をコリント教会の人々に教えました。なぜなら、コリントの人々が聖餐式の意味がよく分からないまま、聖餐式を他の食事と同様に扱っていたからです。パンやぶどう酒を「我先にと」飲み食いしてしまう人たちがたくさんいたようです。また、ぶどう酒を飲み過ぎて酔ってしまう人もいたようです。聖餐式は聖礼典ですから、パンとぶどう酒を食することには深い意味がありますから、私たちもそのことを「わきまえて」食したいものです。

 パウロは、神への礼拝にふさわしくしなさい、、、もしも、ふさわしくなければ、自分を吟味しなさい、、、わきまえないままではいけません、と語りました。神の礼拝に「ふさわしい」態度とは、どのような「心の在り方」を言うのでしょうか。それは「心砕かれて、謙遜な態度」です。こんな者にも神が目を留められ、一方的な癒しと救いを下さった、と告白する心です。ダビデが詩篇の中で証ししている通りです。

詩篇51:17
神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

 私たちは、神の前に罪深い者であることを素直に認め、そんな私をも神は見捨てず、キリストの犠牲をもって「あなた」や「わたし」の罪を赦してくださったことを(常に)喜びたいと思います。日曜日にお決まりのように礼拝に来るのではなく、砕かれ悔いた心と、主への喜び感謝を持って礼拝したいと思います。