一つのからだとなるように

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。Ⅰコリ12:13

 きょうは、教会に集められた「私たち」がキリストのからだとして「一つとされる」ことの大切さについて見ていきたいと思います。教会は「キリストのからだ」である、と聖書(ローマ12:4,5、エペソ5:30)は語ります。教会とは、建物のことを指すのではなく、キリストによって「呼び集められたもの」の群れが教会ですね。ですから、私たちが「キリストのからだ」そのものであり、一人ひとりがキリストに「結び合わされ」、「キリストと一つにされている」ものなのです。

 「キリストに結び合わされる」とか、「キリストと一つにされている」というのは、具体的にどういうことかと言えば、私たちが「洗礼を受ける」ことを指しています。私たちはキリストと出会い、主を信じて、悔い改めをし、洗礼を受けてクリスチャンとされ、教会のメンバーになるわけです。この「洗礼」というのは、「聖餐」と同じく教会では「聖礼典」とされて、とても重要視されています。なぜですか? それは、その人が「キリストと結び合わされ」「キリストのもの」「キリストのからだ」とされていることの証しとなるからです。 「洗礼」というのは、ローマ6:4 でパウロが語っているように、水にざぶんと身体を沈めることは、キリストが十字架で「あなた」の罪のために死んでくださったように、「あなた」自身も悔い改めて、キリストに結び合わされて「罪に死ぬ」ことを表しています。そして、沈んだ後、再び浮かび上がるとは、死んだはずのキリストが復活したように、罪赦され、神の子どもとされ、やがて主の再臨の時にはキリストのように復活の恵みに与っていることを表しています。

 当時のコリント教会には、(神の民と言われた)ユダヤ人や(異邦人である)ギリシャ人、また、奴隷や(奴隷ではない)自由人もいましたが、そのような民族的な違いや、社会的な上下などの違いには関係なく、「洗礼」に与る者はみな、等しく、水に沈んで再び水から上がる、という一連の儀式を通して、「キリストに結ばれたもの」となり、「キリストのもの」「キリストのからだ」とされたのです。12節に、「、、、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」とあるように、キリストのものとされ、キリストのからだとされた私たち教会の一人ひとりは、キリストのからだを形成する部分部分であり、部分部分である私たちが一つのからだとされて教会が成り立っていることを示しています。

 私たちは、民族の違いや社会的上下に関係なく、等しくキリストのものとされたのですが、どうして、キリストのからだの部分部分(すなわち、ある者は目となり、ある者は手となり、足となり、、、、みな様々な部分部分とされるのはなぜなのか。それは、キリストのものとされた者に(それぞれに異なった)聖霊の賜物が与えられるからであり、それぞれ与えられた賜物は教会の益となり、教会が成長するために用いられるからです。異なった賜物を与えられた「私たち」が、みなの益となるために、「一つとなる」ことが教会には必要なのです。