愛がなければ

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。Ⅰコリント13:2

 日本語には「愛」という言葉は一つしかありませんが、ギリシャ語では4つの愛という言葉があります。 一つは、エロスの愛、これは、男女が愛する愛です。2番目は、ストルゲーの愛で、親子の愛です。そして、3番目は、フィレオーの愛で、友情を表す愛。これら3つの愛は人間の愛で、不完全で変わりやすいものです。 しかし、聖書には、もう一つアガペの愛があります。これは、神の愛で、決して変わることのない永遠の愛です。13章に記されている「愛」は、「アガペの愛」で、私たち人間にはないものです。4~7節の「愛」という言葉のところに、自分の名前を入れてみるとよくわかります。

 「(わたし)は寛容であり、(わたし)は親切です。また人をねたみません。(わたし)は自慢せず、高慢になりません。…….」 読み上げていくと恥ずかしくなってきます。しかし、この「愛」という言葉に、イエス・キリストを入れて読んでみるとどうでしょう。

「(キリスト)は寛容であり、(キリスト)は親切です。また人をねたみません。(キリスト)は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

こうしてみると、とてもしっくりしていることがわかります。救い主イエス様はまさに「愛」そのものです。それゆえ、イエス様を信じて、心の中に主をお迎えする時に、私たちの心に、また生活にも、イエス様の「愛」が与えられるのです。

 しかし、キリストを信じて罪赦され、救われている私たちの心の中に、なおも、自己中心の思いや高慢、ときに妬みが生じるのはなぜでしょうか。それは、私たちが罪赦されているとは言え、キリストのようにすべてが変えられたわけではないからです。(肉体の贖いはまだであり、救いが完成したわけではありません。)ですから、不完全な者の集まりです。コリント教会の人々も(まさに)そうでした。そのようにして、教会の中が分裂したり、グループができたりしたわけです。そんなコリント教会の人々に、また、聖書を読む、今の私たちにも、パウロは「最も大切なキリストの愛」にしっかり立つよう励ましているのです。

 私たちの内には「神の愛」はありません。しかし、主はそんな私たちの罪のために十字架で命を捨ててくださるほどに私たちを愛して下さいました。そのイエス様を信じて、その「愛」に満たされる時、私たちも主キリストの「愛」を表すことが出来るようになるのです。パウロは、せっかく賜物が与えられていても「愛がなければ」(1~3節)と何の役にも立たないと言っています。イエス様の「愛」はすべての賜物の土台なんですね。私たちはいつも主から目を離さず、イエス様の愛に満たされて歩みたいと思います。