旅の途中で会って、すぐに別れを告げるようなことはしたくないのです。主のお許しがあれば、しばらく滞在したいと思っています。 Ⅰコリント16:7(リビングバイブル訳)
いよいよ16章になりました。パウロは3回目の宣教旅行で立ち寄ったエペソの町から、コリント教会宛に手紙を書いています。パウロは、2回目の宣教旅行で初めてマケドニヤに足を踏み入れています。それは、主の御心であったわけです。パウロは、マケドニヤを通り、ピリピ、テサロニケ、アテネ、そして、コリントと、それぞれの町で教会を開拓していきました。そして、3回目の宣教旅行でエペソに立ち寄ったときに、コリント教会で問題が起こっていることを聞き、もう一度コリント教会へ行きたいと願い、この手紙を書いたわけです。
ここでパウロは、マケドニヤを通って、コリントにしばらく滞在したいという思いがあったことがわかります。しかし、あくまでも、コリントへの旅は「主がお許しになるなら」という条件つきのものになっています。パウロ自らが計画は立てているわけですが、主が介入されるとき、彼はいつでも(旅が)変更可能であるようにしていたわけです。ここがパウロの素晴らしいところだと思います。
私たちはとかく、自分で立てた計画が変更を余儀なくされるとき、あきらめが悪く、なんとか予定通りに行かないものかと考えてしまう「頑固な」さがあります。私が東京東村山の神学校に入った年、浜松教会でのミッションに戻れなかったことがありました。その年の5月くらいだったでしょうか。土曜日の朝、突然、坐骨神経痛の痛みに襲われ、地元の総合病院にかかり、医師からは「安静」を告げられました。しかし、私の中では「浜松に行かなきゃ」との思いがいっぱいで、なんとかならないかと考えてしまいました。あきらめが悪かったんですね。神さまは、そんな私に「主に委ねる」ことの必要性を教えて下さいました。私たちは、自らの「頑固さ」が障壁となって、主がわたしに願われている最善に気づかないことがあります。しかし、パウロが素晴らしいのは、主にすべてを委ね、御心のままに行動できたことです。2回目の旅で、聖霊により小アジヤでの宣教を閉ざされたとき、パウロはマケドニヤ人が助けを求める幻を見たことを主の御心と信じて、マケドニヤへの宣教に進んでいきました。
ヤコブの手紙には、主の御心のままに動くことの必要性を、このように語っています。
「聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコブ4:13~15)
私たちは、自分がしたいこと、計画していることが阻まれたように見えるときに、がっかりするのではなく、むしろ、御心のままに、と祈る姿勢が大切ですね。
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