慰めの神

  神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。 こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。Ⅱコリント1: 4

 パウロはコリント教会への手紙第2のはじめに、「神は、慰めの神だ」と書き出しました。パウロは、彼が出会った神様のことを、なぜ、「慰めの神」だと語ったのでしょうか。それは、パウロ自身が受けた「苦しみ」を通して、神から「慰め」を受けたからです。パウロは、ダマスコ途上で復活のキリストに出会い、イエス様の救いを経験しました。以前は教会を迫害してきた自分さえも、主は十字架の苦しみと犠牲を通して、その罪を赦してくださいました。キリストの十字架の苦しみには意味がありました。それは、主を信じる者が救われて癒され、慰められることです。

 人は苦しみに遭っている時に、なぜ(自分が)このような苦しみを受けるのか悩むものです。「なぜ?」という問いが、自分の頭の中を何回もよぎります。そして、人は(とかく)その苦しみの原因を探ろうとします。しかし、残念ながら答えは見つかりません。聖書は、人が受ける「苦しみ」には意味があると教えてくれます。詩篇119:71にこのような「みことば」があります。

「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

 神の「おきて」を学ぶとは、「神さまのことを知るようになる」ことです。すなわち、人が「苦しむ」のは、神に出会い、神を知り、神の慈しみと慰めを知るためであると聖書は教えています。★パウロは「苦しみ」に遭うときにはいつも、主が(わたしの救いのために)十字架で犠牲になってくださったこと、その意味を考えていたことでしょう。それは、神さまのことを(さらに)知り、慰められるためなんですね。

 私がかつて父を病で急に亡くしたとき、なぜ父が死んだのかと幾度も考えては苦しむ経験をしました。しかし、神は意外な方法で自問する私を「慰めて」くださいましいた。それは、もしも父の死がなかったら、自分は教会に来ることはなく、イエス様との出会いもなかったということです。このことを通して、自問する私に神様が答えをくださったのだと思います。「苦しみ」には意味がある。父が亡くなる「苦しみ」には、私が主に出会うという意味があったのだと納得したとき、父の死を受け入れることができました。

 パウロは、手紙の中で「自分自身が神から受ける慰めによって、、、苦しみの中にいる人をも慰めることができる」と語っています。私たちも、神さまから頂いた慰めを、人に語ることができるようになりたいと思います。