もし私があなたがたを悲しませているのなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょうか。Ⅱコリント2:2
創世記3章において、罪を犯したアダムを探して、神は、「あなたは、どこにいるのか。」と言われました。そのとき、(あなたは)怒っている神をイメージするでしょうか。それとも、涙を流して心痛める父のような神さまをイメージするでしょうか。パウロがコリント教会い向けて第一の手紙を書いたとき、4節にあるように、辛くて悲しくて涙がぼろぼろと出てくるような、涙の手紙を書いていたことがわかります。その涙は、怒りの涙ではなく、愛するコリント教会の兄弟姉妹たちのことを心から心配して流した涙でした。
コリント教会には、分裂や不品行、偶像礼拝など様々な問題がありました。パウロは、その問題に対処するために第一の手紙を書き、また手紙の中で叱責しました。しかし、それは怒っていたのではなく、教会の人々のことを愛していたからです。この第二の手紙では、パウロが第一の手紙を出した理由と、コリント人たちを思う愛のことばが書かれています。第一の手紙によって、コリント教会は痛み悲しみを感じましたが、この第二の手紙によって、パウロは彼らとの間に主にある「喜び」を取り戻そうとしました。
パウロがここで話している「私が悲しませているその人」とは、Ⅰコリント5章に登場する、父の妻を妻にしている者のことです。不品行を恥ずかしいことと思わないでいることへの叱責と、それを知っているのに、そのまま見過ごしている教会の態度をパウロは叱責したのです。第一の手紙を通して、この罪を教会から取り除きなさい、その悪い人を信者たちの交わりから引き離すようにアドバイスしました。そして、このパウロの厳しい処置に教会の人たちは従ったようです。(6節)実際にこの兄弟を交わりからはずしたとき、教会に大きな悲しみが起こりました。そして、最も悲しんでいるのは、罪を犯していた本人です。 パウロが願っていたのは、第一の手紙によって教会の人たちが罪を悲しんで、悔い改め、そして究極的に「本当の喜び」を手に入れて欲しいと願ったからでした。人も教会も、罪をそのままにしているならば、主への礼拝は形だけのものになり、心が入らなくなっていくものです。ですから、罪は取り除かなければいけません。それはとても辛い作業です。身体に出来た「できもの」を取り除くとき、メスを入れるわけですから痛みが走ります。しかし、それを通らずに「回復」はありません。信仰も同じです。罪を悲しんで、悔い改めて、キリストの救いを「自分のもの」としなければ、主にある「本当の喜び」を得ることができません。
コリント教会に最も欠けていたのはキリストの愛です。赦しです。現在の私たちにとっても大切なことですね。愛を持って接し、愛をもって受け入れる。教会の中に何か問題が起これば、そのままにせず、その問題が解決するように(キリストの愛をもって)祈り働きかける。愛を持って受け入れ赦していく、、、、そのような教会でありたいと思います。
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