土の器の中に

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。Ⅱコリント4:7

 きょうは「土の器」という言葉が出てきます。パウロは、私たちクリスチャンは「土の器」だと語っています。この「土の器」という言葉をパウロが用いたのは、創世記において、神が私たち人間を「地の塵」すなわち「土」から造られたと記している、、、その「土」を意識していると思います。パウロはその土の器である私たちは、その中に「宝」を入れていると語っています。その宝とは「イエスキリスト」のことであり、「聖霊」のことだと思います。私たちは皆、命のない「土」から造られた存在かも知れませんが、その土の器に「イエス様」をお入れすることで、神と共に「新しく生きるもの」とされたのだと、パウロは語ります。創世記によれば、神が(土から造った)人の鼻に息を吹き入れられると、人は「生きるもの」となった、とあります。どうして神は私たち人間に息を吹き入れて「生きるもの」にしてくださったのか。それは、神ご自身が人と(人格的に)深く交わりたいと願われたからです。しかし、悪魔に誘惑されて人の中に「罪」が入り、その結果として、人は神に背き(神から離れて)生きるものになりました。それが現在まで続いているわけです。

 私たちは、ご飯を食べるのも忘れるくらい熱中することがあります。それは一概に悪いとは言えませんが、注意しなければならないことがあります。それは、私たちに好きなものが沢山あったとしても、私という器の中心に、常に「イエス様」を置くことが大切なのです。なぜなら、私たちは(時に)自分を中心に据え、イエス様の御思いを考えずに自分がやりたいことを優先してしまうことがあるからです。賜物豊かなコリント教会の人たちも、神の祝福である「イエス様」の救いや恵みを(脇において)自分を中心に考え行動してしまったことで教会が混乱してしまいました。パウロはそのことを心配して愛と戒めと励ましの手紙を送ったわけです。

 私たちにとって、とりわけ厄介なのは、弱くてもろい「土の器」の「私たち」が、自分は強い器だと勘違いすることがあるからです。私たちが自分の中に「強さ」を持つときとは、神様イエス様を頼らずに、自分の力で出来ると思う(その)時です。例えば、大切な家族を乗せて高速道路を走るようなときは、イエス様が支えてくれるよう祈りたいものです。また、私たちが心を頑(かたく)なにするとき、私たちは「強い」のです。例えば、他の意見に耳を貸さず自分が正しいと思うような時があるでしょう。私たちが頑固になるとき、他人との関係もぎくしゃくしがちです。コリント教会でも(おそらく)このようなことが起こり、教会に一致がなくなり、分裂してしまいました。このようなとき、私たちは(イエス様がすべてを手放して)十字架で死なれたことを思いましょう。私たちに必要なことは、一致や和解のために自分に死ぬことです。すなわち、頑なになり握って離せないものを手放すことなのです。私という「土の器」の中にイエス様をいただいて、頑なな手を放すことができるものとなりたいと思います。