神との和解

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 Ⅱコリント5:18

 パウロは私たちが主を信じて「新しく変えられた」恵みのことを、それは「神との和解」であると語りました。「神との和解」とは具体的にどういうことなのでしょうか。それは、神を信じる前の自分は汚れの中にあって、とても神に近づけるような存在ではなかったけれど、キリストを信じ受け入れることにより罪が赦され、「神との関係を回復させていただけた」ということなのです。

 「和解」という言葉は法律用語でもありますね。被害者と加害者がいて、被害によって発生した損害の回復について相互に話し合うわけですが、はじめは納得できないことでも、次第に折り合いがついて合意に至ることを「和解」と言います。神さまとの関係で言えば、神さまは「あなた」や「私」の造り主であり所有者です。この所有者である神のもとから勝手に離れてしまったのは人間ですから、関係回復するに当たり、被害者は「神」であり、加害者は「人間」です。しかし、神は驚くべきことをなさいました。なんと、被害者である「神」の側が被害や損害をすべて「赦す」と申し出られたのです。人間の世界では考えられないことです。被害にあった代物や被害金額をふつうは被害者側が請求するわけですが、神は、なんと、人間が(人類が自らの力では決して解決できない)罪をすべて赦すために、独り子なる神キリストを十字架につけて身代わりに人類の罪を負わせました。このキリストの犠牲に免じて、主を信じる者は誰でも罪が赦され、神との崩れた関係が回復されました。これが「神との和解」です。「和解」という語は、ギリシャ語による聖書原典では「変わる」という意味があるそうです。すなわち、「神との和解」である十字架のキリストを受け入れたものは、神との関係がそれまでとはすっかり変わって新しくされるということです。キリストを信じて新しく造られた者は、古いもの(罪)が消し去られて、すべてが新しくなったということです。

 「神の和解」を受けたものは、その恵みをただ受けるだけではありません。「神の和解」を経験した者は、今度は、神と人とを執り成す「和解の務め」=すなわち、福音をのべ伝える働きを神から委ねられるのです。私が神学校の最終学年のとき、横浜で1年間過ごした一番の収穫は、「福音喫茶メリー」に集う人々を通して「救いの喜び」がどれほど他人を感動させるかを知ったことです。メリーで救われた(自称)第1号という方が新しく来る人にいつも「歓迎の声」を掛け、自分が救われたときのことを目を輝かせて証ししている姿が忘れられません。私も遣わされる教会でそのような生きた伝道の働きをしたいと思いました。伝道の働き、その原動力は、まさに「救いの喜び」ですね。20節にあるように、私たちはキリストの使節(使者)なんですね。私たちは神の協力者です。全世界に出て行き、「神との和解」=福音を一人でも多くの人に伝え、イエス様の救いを受けるよう勧めたいと思います。