神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。Ⅱコリ7: 10
パウロは本日の箇所で2つの「悲しみ」について語っています。それは「神の御心に添った悲しみ」と、「世の悲しみ」の2つです。「神の御心に添った悲しみ」は人を悔い改めと救いに導き、「世の悲しみ」は人に「出口のない」「解決のない」苦しみと死をもたらすとあります。「神の御心に添った悲しみ」と「世の悲しみ」の違いはどこにあるのでしょうか?
イエス様の12弟子の中に、イエス様を裏切ってしまった人たちについて聖書に記されています。2人の人物を紹介すると、一人はイスカリオテ・ユダです。ユダは(イエス様がやがてユダヤの力強い王になること期待していたのですが)そうではないことがわかり、失望し、イエス様を祭司長たちに引き渡して裏切ってしまいました。もう一人はペテロです。ペテロはイエスが捕えられた時、恐怖の中でイエスを三度否認して裏切ってしまいました。ユダもペテロも共にイエスを裏切り、共に罪を犯しました。しかしユダは自殺し、ペテロは立ち直りました。何が二人を分けたのでしょうか。神を信じる人もそうでない人も、共に罪を犯します。神を信じる人は、「認罪」といって、自分が犯した罪を認める時、自責の念にかられ、その罪を悲しみます。そして、神の前に正直に出て、自分の罪を悔い改めます。その結果、神の憐れみ=キリストの十字架による一方的な神の赦しが与えられ、また立ち上がることができるわけです。 しかし、神を信じることの出来ない人は、犯した罪を認めようとせず、どこまでも隠そうとします。そのため、罪が罪として明らかにされず、主イエスの十字架の救いの恵みが分からないため、主による身代わりの犠牲・償いが分からないので、そこには赦しがなく、赦しがないから平安がないわけです。罪からの救いの第一歩は「認罪」ですね。そして、「私は罪を犯しました」と神の前で悔い改める時、そこに神の祝福が始まるわけです。
パウロはコリント教会のクリスチャンたちに厳しい内容の手紙を送りました。そして、結局は、パウロからの手紙を読んだ彼らが、いかに神の愛から離れていたかを示され、それを悲しみ、神の前に悔い改めることが出来たので良かったわけです。同様に、私たちも教会の中で誰かが何か問題を起こしたとき、その人が起こした問題を悲しみ、神の前に悔い改めることが出来るよう「とりなし」ましょう。そして、その人の回復のために祈りましょう。主の教会に呼び集められた私たちは、ひとり一人が、そのように「とりなしていく」勇気を持つべきです。そして、その人が悔い改めに導かれる時、私たちはそのことを喜ぶのです。また、今はクリスマスの時期です。ノンクリスチャンの方々がイエス様に出会い、罪を悲しみ、悔い改め、神のもとに立ち帰ることができるように「とりなして」参りましょう。
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