弱いときにこそ強い

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。Ⅱコリント12:9

 BS-NHKで「日本の三百名山を制覇する(グレートトラバース」という企画番組があります。それぞれの山を麓から頂上まで勇ましく短時間で登るという番組です。まるで人間の持つ力(その限界)を試すような番組です。人は自分の力を試し、その力が勝っていれば嬉しくなりますし、誇りたくなるものかも知れません。そして、世における価値基準も、それと似ているのではないでしょうか。外面的な地位や名誉、影響力が強いことが「力」であり、弱いことは「強さの欠乏」であり、「無能」であると考える傾向があります。

 パウロにも、人に認められたい、賞賛されたい、霊的賜物を誇りたいという誘惑がなかったわけではないと思います。でも神は、彼が高ぶらないように一つの弱さを与えられました。「キリストの力」が発揮されるのは、「弱さのうち」だと聖書にあります。それは、弱さのあるところならどこでも自動的にキリストの力が働く、という意味ではありません。この「弱さ」とは、弱さを認めることを指しています。自分の力により頼むことをやめ、自分の弱さを認めることで、キリストの力を体験するのです。

 牧師にとって、何が最も恐ろしいかと言えば、日曜日の朝になっても説教が出来ていないことです。かつて夢で見たことがあります。日曜日に講壇にあがるのですが、そのとき、まだ説教ができていない恐ろしい夢です。しかし、かつてそれに近い経験をしました。火物師が土曜日の夜に急に具合が悪くなったときがあり、急きょ、わたしが説教を引き受けることになりました。引き受けたのはいいのですが、、、説教準備ができない、間に合わない、それこそ自らの「弱さ」を覚えた時でした。そして、当日の説教でも自分の弱さや不甲斐なさを(皆さんに)正直に話したような覚えがあります。しかし、不思議なことに、礼拝後、「きょうの説教、、とてもよかった、、、」と言ってくれた方がいて、、、思わず神様に感謝致しました。でもどう考えても説教の内容がよかったとは思えません。おそらく、わたしが弱さを認めるところに聖霊さまが働いてくださったのだと思います。

 アブラハムは75才のときに召命を受けてカナンに出かけ、またモーセも80才のときに召命を受けてエジプトに行き、奴隷とされていた同胞イスラエルを救い出す働きをしました。アブラハムもモーセも(若い時ではなく)むしろ老齢になって神に召されています。なぜでしょうか。それは、老齢となった彼らの手の中には若さも気負いも何もなかったゆえに、神がそのような彼らの弱さを用いられたのだと思います。わたしたちは(とかく)順風のときは、神様をわきにおいて、自分中心に、自分の力でなんとかできると思っていましがちです。しかし、わたしたちは神様抜きには何もできない存在であることをいつも認めて、この新しい年も、神が下さる恵みに期待して参りましょう。