まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。詩篇1:2,3
詩篇一篇では、「人の生き方」を「右」か「左」の2つにしぼって紹介しているように思います。すなわち、「あなたは正しい人として生きるか」、「悪者として人生を終えるか」、読む側に二者択一を迫っています。神と共に歩む「正しい人」とは、神と共に歩む人のことであり、一方、「悪者」とは、神さまとの関係を絶って自分中心に生きる人のことです。
神と共に歩まない人は、「悪者のはかりごと」に近寄ってしまいます。これは罪への誘惑のことですね。創世記3章のアダムとエヴァがヘビに誘惑される場面が出てきます。神さまから離れてしまうと誘惑に陥ってしまうのです。そして、やがて、罪人の道に入ることが習慣になります。すなわち、「当たり前に」なってしまいます。山上の説教でイエス様が言われた「狭い門から入りなさい」というみ言葉がありますね。救いに至る門は、本来はとても広いのですが、罪人の道を歩んでいると、広く開かれているはずの「救いの門」に気づかなくなるのです。そして、神を信じる者を、また神を信じることを馬鹿にして「あざける者の座」に落ち着いて動きがとれなくなるのです。悪者は空しく、籾殻のように、最後は滅びが待っていると聖書は語ります。
皆さん、人間にとって「幸せ」とは何でしょうか。それは、神と共に生きることです。これが詩篇一篇で神が人に語っていることです。神と共に生きる人は、水路のそばに植えられた木のようだとあります。「水路のそばに植えられた木」と言えば、川沿いに桜の木が植えられている光景を想像します。川沿いの桜の木は見事に成長して生い茂っているじゃないですか。それと同じように、「神」さまは私たち人間を造られたお方ですから、私たちにとっては命の源ですね。水路のそばに植えられた木が育つように、神さまと共に生きるならば、時が来ると実がなり、その葉は枯れない。(すなわち) どんなに苦しくつらいことがあっても、神と共にあるなら、乗り越えられます。実がなるように時間がかかることがあるかも知れないけれど、乗り越えさせてくれるのです。
神と共にいる秘訣は、主のおしえを喜びとし、とあるように神の言葉(みことば)を大切にし、思い巡らし、口ずさむことだと詩篇は教えています。皆さん、聖書を読んでおられますか?絶えずみ言葉を味わっていますか? しかし、聖書を読むことを「~しなければならない」と律法的に受け取ってしまうのは禁物です。イエス様は「山上の説教」の冒頭で、「心の貧しい者は幸いです。」と人々に語られました。「心の貧しい者」とは自らの罪を認め、(自分は)神なしには生きられません、と言える者です。イエス様はすぐに自己中心に陥ってしまうような心弱くて駄目な「私」の罪のために、身代わりに十字架で死んでくださったお方です。ですから、神と共に生きる秘訣は、、、み言葉そのものであるイエス様を愛することであり、いつでも、どこにおいて主を仰ぐこと、、、それが神と共に歩む秘訣です。なぜなら、主は信じる私の中に命の源としておられ、私たちを天の御国まで導いてくださるからです。「その人は何をしても栄える」とはそういうことなのです。
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