ゲッセマネの祈り

イエスは深く恐れもだえ始められた。 34そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目を覚ましていなさい。」マルコ14:33,34

 きょうはゲッセマネの園でイエス様が祈られた場面からお話致します。ここに、イエス様が深く恐れもだえ始められたとあり、また、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とも言われました。 イエス様も恐れることがあり、死ぬほど悲しいと思われることがあるんだと気づかされるとき、少し「ホッ」と致します。なぜならば、私たちも「強がらなくていい」、、、「恐れる時には恐れ」「悲しい時には悲しんで」いいと、主が模範を示して下さっているように思うからです。オリーブ山に来て、主はご自身が十字架につけられることを弟子たちに話された時、ペテロが「たとい全部の者がつまづいても、私はつまづきません。」と言ったことは、主を愛する彼の素直な心を表した言葉だったと思いますが、しかし、主はペテロが「強がり」を言っていることをご存知だったのです。

 さて、イエス様はこのとき、何を恐れ、また、何を悲しまれたのか。その第一は、人々にののしられ馬鹿にされて死んでいくことへの恐れと悲しみです。主は神様ですが、同時に、100%人として生まれて下さったお方ですから、私たちと全く同じ肉体を持っておられました。ですから、十字架という極刑を前にして、人々から叩かれ、鞭を打たれて肉体が裂ける痛みや、、、十字架に釘付けされるときの極度の痛みがあったのは当然ですが、しかし、そのような肉体的な痛みへの恐れよりも、人々から「ののしられ」「ばかにされて」死んでいくことの苦しみや悲しみの方が大きかったのだと思います。、、、、「あなた」や「私」の罪の贖いのために(身代わりに)十字架で死なれたとは言え、自分を「ののしり」「ばかにする」者たちのために死んでいくことほど、、、、心が張り裂ける「悲しい」ことはないのではないでしょうか。

 そして、主が「恐れ」「悲しんだ」もう一つとは、「神の怒りの杯」です。

 36節に記されている「杯」とは(十字架での)「死」のことです。主は神であり「罪はひとつもない」お方でしたが、私やあなたの全ての罪を、人類の全ての罪をその身に負われ、罪ある人間の代表として十字架で死んで陰府(よみ)にまで下ってくださいました。 主が(罪人が行く)陰府に(身代わりに)下ってくださったことにより、主を信じる「あなたや私」の罪は(神の前に)完全に赦されました。しかし、陰府に下っていかれた主はどうだったでしょうか。陰府とは、永遠の滅びにつながる場所なんですね。父なる神とは(永遠に)離れ離れにされてしまう所に行かねばならなかった主は、、、、「恐れ」を感じ、死ぬほどの「悲しみ」に襲われたんですね。皆さん、神様を知らないというのは、、、、こういう「恐れ」「悲しみ」に襲われるということなんですね。ですから、私たちは、主が成し遂げてくださった十字架の救いを見ながら、いつも「目をさまして」いなければなりません。主の十字架は「私のため」なんだな、、、主は「弱音をはけずに」、つい「強がってしまう」私のために、、、身代わりに死んでくださったんだなと、目を覚ましていなければなりません。