イエスはペテロに言われた。「・・・あなたは、わたしに従いなさい。」ヨハネ21:21
きょうは、弟子として、使徒として新たに遣わされていくペテロにとって「主に従う」とはどういう意味があるのかをご一緒に考えてみたいと思います。 「主に従う」とは、わたしたちにとって(実は)大変難しいことのように感じます。わたしたちは(普段)自分の思いに従って生きる者だからです。クリスチャンの私たちにも難しいと思うことは、自分の思いよりも主の思い(みこころ)を優先させて生きることです。すなわち、肉に生きるのではなく、御霊に生きることは難しいものですね。
さて、そのような私たちにとって「主に従う」ために大切なことは、「主の取り扱いから目をそらさない」ことです。(本日の箇所において)ペテロはヨハネと自分を比べてしまいましたが、私たちが神から目をはなして兄弟姉妹を見つめ始めると、そこにはいくつかの問題が生じてきます。その一つは「高慢になってしまう」ことです。ペテロは、「わたしについて来なさい」との主の招きに応えて、網を捨てて主に従いました。(マタイ:17) そののち、ペテロは「すべてを捨てて・・・従って来ました」と自信をちらつかせながら主に語ったことがありました(マタ19:27)。金持ちの青年が「永遠のいのち」のことで主に質問した出来事の中で、主から「財産を貧しい人たちに分け与えなさい」との勧めに対して、青年が(悲しんで)去っていったことと自分とを比べて、「自分はすべてを捨てて(主に)従って来た」と自信をちらつかせて言ったのでした。主はそんなペテロの高慢な態度に対して、「先の者が後に」なることがないようと、「ぶどう園の労務者」のたとえを話してペテロに警告しました。自分が優位にあると考えて高慢になり、弱い立場の人たちを決して見下すことがないように、わたしたちは「主に取り扱われる」ことを感謝して受け取りたいと思います。主があなたを取り扱うのは、あなたが主に従う者とされるために(愛を持って)気づかせようとしておられるのです。
また、ねたみや自己憐憫に対するノックも(同様に)「主の取り扱い」です。自分の目から見て、他の人が恵まれているように見えたり、その人の持っているものを妬ましく思えたりすることはないでしょうか。また、「なぜ私だけがこんな目に会わなければならないのか」と、自己憐憫を覚えることはないでしょうか。そこには主に対する(主の取り扱いに対する)不満があるからだと思います。それは「放蕩息子のたとえ」に登場する兄に見られるものです(ルカ15:29)。そのような「ねたみ」は、あなたが人を愛することを邪魔するだけでなく、神様から頂いている恵みまでも見えなくさせてしまいます。そして、主に従うことを難しくします。
私たちは(ひとり一人)イエス様にこよなく愛されています。そんなイエス様から(決して)目を離さないようにしなければなりません。そして、神様は(私を愛するがゆえに)私と出会って下さり、「主の十字架が私の救いのためである」と私に気づかせて下さったことを感謝し、「主に従う」であり続けたいと思います。
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