信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。、、、そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美した。使徒2: 44~47
みなさんはイエス様を信じて(自分のここが)大きく変えられたなと思うことがあるでしょう。きょうの箇所には、ペテロの説教を聴いて悔い改め、イエス様を信じて聖霊を受けて新たに弟子として加えられた人々が大きく変えられた様子が描かれています。
主を信じて聖霊を受けた者の生き方はどのように変えられるのでしょうか。第一に、「熱心に礼拝をした」ということです。46節に「そして毎日、心をひとつにして宮に集まり」とあるでしょう。彼らは主イエス様によって救われたことを(毎日)感謝して神に礼拝をささげたことがわかります。ここに、「心をひとつに」して礼拝したということに目を止めたいと思います。「心をひとつにする」とは、「彼らの心と思いが(皆)主イエス様に向けられている」というイメージでしょうか。わたしたちは神を礼拝するとき、神の一方的な配慮によって、罪びとである『わたし』に神が目を止めて下さり、神の独り子主イエス様を犠牲にしてまでわたしを愛し救ってくださった、という感謝で礼拝しているでしょうか。わたしたちは毎週習慣として礼拝するのではありません。神に感謝をささげ、神に応答し、神に仕えいく思いをもって礼拝するわけです。(今なお)コロナ禍にありますが、対面で礼拝する者も、オンラインで礼拝する者も(場所は違えども)、みな(そのような)心で(ひとつとされて)礼拝をしたいと思います。
そして、第二には、「交わりを大事にした」ことです。ここで語られている「交わり」とは、単に仲良し同士の「集まり」のことではなく、主イエス様に愛され、罪赦されてバプテスマを受けた者同士の「交わり」のことです。バプテスマとは「葬り」ですね。主イエス様を信じる者は、皆、主とともに十字架で罪(自己中心)に死んだものと受け取ることがバプテスマです。ですから、主イエス様を信じる者は(皆)神を中心に生きようとする者であって、主が一人ひとりを大切に思われたように、ひとり一人を大切にしようとするのがクリスチャンです。ですから、クリスチャンは「交わりを大切にできる」と思います。46節に、「パンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにした」とありますが、主の聖餐(愛餐)のときには、われ先に自分勝手に食べたり飲んだりするのでなく、(主がされたように)愛する兄弟姉妹のことを考えて食事をしたのでしょうね。主に救われると、弟子たちは自分の資産や持ち物を売って、仲間の必要に(それを)充てていたというのは、生活に困っている者を助けるために彼らに寄付したのではありません。これは、現在の私たちが神様に「献金」したり「奉仕」したりするのと全く同じです。クリスチャンたちはイエス様によって救われた喜びの応答として、神様に献金し奉仕をして自分自身をささげているのです。
あなたは聖霊をいただいて(どこが)変えられたでしょうか。主によって変えられていることに感謝しましょう。そして、神に賛美をささげましょう。
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