確信を保ちさえすれば

もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。ヘブル3:14

 ヘブル人への手紙3章の中心的テーマは「最初の確信」です。では、「最初の確信」とは一体何でしょうか。されは、ペテロの説教で救われた3000人のユダヤ人たちが、「イエスさまこそ救い主メシヤです」と確信した(その最初の)信仰のことを指しているように思います。

 イエスさまの時代のユダヤ人たち、とりわけ、律法を非常に重んじたパリサイ人たちにとって、信仰とは、神を「見上げる」というよりも、律法を重んじて律法を「守り行う」ことに重きを置いたんですね。そして、これは(現在の)私たちクリスチャンにも言えることかも知れません。なぜなら、私たちは(よく)イエスさまを信じているというとき、「礼拝をどれだけ守っているか(というその行動)」をその尺度にすることが多いからです。しかし、その実、救い主であるイエスさまがどのようなお方で、主の救いが(自分にとって)いかに大切なのか注意深く見ていないのではないでしょうか。残念ながら、ペテロの説教を聴いて救いに導かれたユダヤ人たちの中には、多くの迫害に耐えかねて、もといたユダヤ教の世界に戻って行こうとする者たちがいたことがわかります。そのように主を信じる信仰から「こぼれ落ちてしまいそうな」ユダヤ人クリスチャンたちに向かって、ヘブル人への手紙の著者(パウロ)はこの3章の中で、「信仰からこぼれ落ちない」ための秘訣について語っています。それは14節にあるように、「最初の信仰を最後まで保つこと」です。すなわち、「罪を悔い改め、主こそキリストです」「主はわたしの罪の身代わりに十字架で死んで下さった」と告白したときの、その「最初の確信」をこの地上を去るその(最後まで)、、、しっかり保つことで、私たちは(必ず)キリストの救いにあずかる者となります。では、「救いの確信」を(最後まで)しっかり保つには、(具体的に)どのようにすればよいでしょうか。2つのことをご紹介します。

 一つには、15節にあるように、「み言葉を聞くときに心をかたくなにしない」ことです。皆さん、足の裏や手の指に皮膚がかたくなる「たこ」をご存知でしょう。この固くなった「たこ」をペン先とかでチクチク刺しても痛くありませんね。同様に、み言葉に耳を傾けずにいると、主の御声を聞かなくなることを何とも思わなくなるんですね。み言葉を無視する「痛み」を感じなくなること=これが「心をかたくなにする」ことです。私たちは、主のみ言葉に耳を傾け続け、「最初の確信」をしっかり保ちましょう。

 もう一つは、13節より、「互いに励まし合う」ことです。私たちは、自分では信じているつもりでも、実は心がいつの間にか主から離れ、実際には不信仰になっていることがあります。「私は主を礼拝しているから、教会に行かなくても、他のクリスチャンと交わらなくても大丈夫だ」と考えるとしたら、その人は(サタンによって)惑わされています。私たちは、いつも互いに励ましあうことによって、主の御声を聞くことができるのです。私たちが独り信仰を保つのは難しいことです。しかし、教会に集い、互いに励まし合うことで神の御声を聞き、そこで「最初の確信」を保つことができるのです。