神の安息に入るには(2)

みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。ヘブル4:3,4

 皆さん、きょうの箇所を読みますと「安息」という言葉が出てきます。皆さんは「安息」と聞くと、聖書のどの箇所を思い浮かべますか。そう、天地創造の御業をすべて終えられたのち、7日目に神が「休まれた」という「安息」です。ユダヤ教の安息日はこの「安息」から来ています。さて、皆さん、もう一つの「安息」と言えば何ですか。それは、私たちクリスチャンにとっての「安息日」に深く関わっています。私たちはイエス様が十字架で死なれた後、三日目によみがえられた日曜日を「安息日」にしているでしょう。私たちはなぜ日曜日を「主の安息の日」=安息日としているのでしょうか。きょうは、2つの「安息」のことを中心に見て参りましょう。

 最初は旧約聖書における「安息」についてです。旧約における「安息」と言えば、何と言っても、神が6日間で天地創造の御業をされたのちに、7日目に「休まれた」という「安息」です。神は天と地を6日かけてお造りになり、すべてを完成されました。完成され、もうそれ以上創造の働きをする必要がないゆえに「休まれた」わけです。神が「休まれた」というのは、神が天地創造の働きをされたのち、疲れて「休まれた」のではありません。すべてを完成されたゆえに「安息」に入られたわけです。すなわち、「安息」とは、すべてを完成したから、その完成したところに「とどまっている」ことを意味します。神は、天地創造の6日目にこよなく愛して人間を創造し、神は人間に(神が準備され、整えられた)エデンの中に(いつまでも)ととまって神と交わることを願われました。ところが、人間の中に罪が入り、神に背いたために彼らは(主の)安息にとどまることが出来ませんでした。しかし、3節の後半に、「みわざは創世の初めから、もう終わっている、、、」というみ言葉がある通り、神は(神に背いた)人間を再び取り戻すために、天地創造の初めから、神の救いの御業の備えておられたのです。その新たな「神の救いの御業」とは、キリストによる救いのことです。これが、もう一つの「安息」のことです。

 キリストはあなたが罪から救われるために、身代わりに神から罰を受けて死んで下さいました。そして、死後三日目によみがえり、天に昇られました。主は十字架で死なれる直前に「完了した」と言われ、息を引き取られました。主は、私たちと神を引き離していた罪をすべて取り除かれ、私たちが天に入れるための「備え」をすべて完成させ、整えて下さいました。ですから、私たちが救われるために必要なことは、このキリストの御業に「とどまり続ける」こと以外、何一つないわけです。

 洗礼を受けた人の中に、頑張って成長するために何か良い行いをしようと考える人がいるとしたら、それは全くの思い違いです。なぜなら、主はすでに救いの御業を「完成」しているからです。救われた「あなた」が救いのために何か良い行いをする必要はありません。ただ、イエス様が完成された救いに「とどまる」だけです。主の救いにとどまり続けるために、あなたや私がすることは(ただ)主から目を離さぬ努力なのです。