私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、、、恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。ヘブル4:15,16
私たちは、天に入るまでは肉体を持っています。私たちは主の救いを信じて(聖霊によって)新しくされたものですが、それは(私たちの)霊が贖われたのであって、肉体にはアダムからの罪が残っています。ですから、いつも霊と肉との間に葛藤が「生じる」わけです。しかし、主が再臨されるときには、私たちの身体をも復活の、新しい身体へと造り変えてくださることによって、(私たちは)天国に入れていただけるので感謝ですね。
この新しい身体を持つまでは、私たちは肉の弱さをかかえながら生きていくことになります。この肉体は罪の誘惑を受けますし、肉体の疲れをおぼえますし、衰えて病も多くなってきます。しかし、救いを成し遂げられたイエスさまは、これらの弱さを知らないで、遠くから私たちをご覧になる方ではありません。主が地上におられたとき、罪は持っておられませんでしたが、肉体の弱さは持っておられました。主は(クリスマスに)家畜小屋でお生まれになり、貧しさの中に生まれて下さいました。やがて、時が満ち、十字架に向かわれた主は多くの試みを受けられ、人々に裏切られ、さげすまれ、十字架で死なれたほどに、(人が経験したことがないような)痛み・苦しみを経験されたお方だからです。神はイエスさまに代わる助け主=聖霊を与えて下さり、いつも私たちに寄り添い、励まし続けて下さっています。ですから、地上においてどんなに試練や困難があっても、私たちも(忍耐された主に励まされ)耐え忍ぶことができる者に変え続けてくださるのです。
16節において、復活し昇天されたイエスさまが着かれた神の御座のことを、ヘブル書の著者は「恵みの御座」と記していることに注目しましょう。主は、神が人の罪の上に下した怒りをなだめるために、身代わりに十字架で死なれたお方です。主が十字架を通して人のすべての罪の「償い」をして下さったことによって、神の御座はもはや、さばきの御座ではなく、「恵みの御座」だと言うんです。 私たちは主の救いにあずかっているとは言え、霊のみが贖われている者です。肉体は(まだ)贖われていない弱いものです。様々な誘惑を受け、不安や心配に陥るような不信仰な者かも知れません。そして、神の怒りを恐れ、神の前に「弱い自分」「ダメな自分」を隠すような者かも知れません。しかし、私たちは(もはや)神の怒りを怖がらなくてもよいのです。神の前に頑張って着飾らなくてもよいのです。ありのままの(弱くてダメな)自分の姿で神の前に出てよいのです。なぜなら、主はそんな「あなた」の罪のために十字架で死なれ、よみがえられ、天に昇り、主を信じる「あなた」のために「恵みの御座」を用意されているからです。「あなた」や「わたし」がすることは、ただ、主の一方的な恵みによって救われた喜びと感謝をもって神に大胆に近づくことなのです。
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