大祭司イエス

彼(大祭司)は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。ヘブル5:2

  ヘブル書には、イエスさまが(私たちの)大祭司であると、くり返し語られています。ところで皆さんは「祭司」とはどのような働きをしたか覚えているでしょうか。 「祭司」とは、神に仕える人たちのことを指す言葉です。幕屋や神殿で神に仕える役割を担った人たちです。イスラエルの民がささげる作物や犠牲の動物を、民に代わって神にささげる役割をしていました。いわば、神と民との「とりなし」をしていたわけです。祭司は(モーセの律法時代から)レビ族から選ばれ、しかも、年に一度、アロンの家系から大祭司が選ばれ、贖罪日には民の代表として、犠牲の動物の血を、至聖所の契約の箱(贖いの蓋)の上に注ぎ、イスラエルの罪の贖いを神に願い出ました。

  さて、ヘブル書では「イエス・キリストこそ神であり、永遠の大祭司である」と語っています。なぜ、主は永遠の大祭司なのでしょうか。なぜなら、(大)祭司制度はモーセの時代に律法で規定された制度でした。ところが、メルキゼデクは(モーセの律法のはるか前の)アブラハムが活躍した時代の人物でしたが、彼は「祭司」であったとの記述があります。第一に、イエスさまもモーセの律法規定によらないで、神によって大司祭とされたお方だからです。 第二に、モーセの律法に従えば、祭司(大祭司)はレビ族の中から選ばれるべきなのですが、イエスさまは人となられた神の御子です。主は(御子ゆえに)汚れが何もないお方であるにもかかわらず、私たちの罪の贖いのために、十字架でご自身の身体を犠牲として(神に)捧げられたからです。このイエスさまによる十字架による犠牲によって、これまで毎年神に犠牲の動物を捧げ続けなければならなかった祭司たちとは異なり、イエスさまは一度のみ、自らの身を犠牲として捧げる事で、主イエスを救い主として信じる者たちのために「永遠の贖い」を成就されたのです。

  ヘブル5章2節を見ると、永遠の大祭司であるイエスさまは、あわれみ深く、思いやりに満ちたお方であることがわかります。 大祭司は、律法に従ってレビ族(アロンの家系)から選ばれました。彼らも生身の人間ですから罪を犯してしまう「弱さ」がありました。しかし神は、人の「弱さ」を知り、その「弱さ」を思いやることができる人物を大祭司として(あえて)選ばれたのです。イエスさまは(まことの)大祭司であり、永遠の大祭司ですね。なぜなら、主ご自身が、同胞の民から罪人と呼ばれてさげすまれていた人々と食事をし、共に歩みながら彼らを悔い改めと救いに導いてくださったからです。私たちは、主のように、無知で迷っている人々を思いやり、(どれだけ)手を差し伸べることができるでしょうか。イエスさまのように、無知で迷っている人々のことを憐れみ、彼らに寄り添い、主の福音を伝える者でありたいと思います。