この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。ヘブル5:11
「この方について」とは、「まことの神の大祭司であるイエスさまについて」というとこです。キリストの信仰から(今にもこぼれ落ちてしまいそうな)ユダヤ人クリスチャンたちに対して、イエスさまが救い主であり、まことの大祭司であることを、あれもこれも沢山したいと思うけれども、、、彼らの「耳が鈍くなっている」ため、困難を覚えていると語っています。「耳が鈍くなっている」とはどういう意味でしょうか。わたしたちも(ときに)耳が鈍くなることがありますね。聖書を読んでいても、礼拝や集会で「みことば」を聞いていても、神さまからの御声を聞き逃してしまうことがあるでしょう。おそらく、神の御声をさえぎる何かが心を占めているからです。心配事やイライラや、怒りなどが心を占めているときには神さまの声が(素直に)入ってこないものです。夫婦間で、また、身近な家族同士で何かもめ事があって、それを引きずった状態で礼拝に臨んだことがありますか? そのようなときは、人は(とかく)自己正当化しようとするせいで、主からの御声を聞き逃してしまうことってあるでしょう。 礼拝に臨む前に悔い改めて、心の中を整えていないと、、、主からの大切なノックを受け取ることができない「私たち」です。聴く耳をもって「きく」ことの大切さを思います。
イエスさまも「種まきのたとえ(マタイ13:1~8)」で、みことばを聴くことの大切さを話されたとおりです。耳が鈍いというのは、良い地以外の地に蒔かれた種のことですね。種は同じでも、それがどこに蒔かれるかによってその結果が全く違ってくるわけです。良い地に蒔かれるとは、(聞く耳を立てて)みことばを聴き、主からのノックを受け取ることができる人のことを言うわけです。私たちに必要なことは、神の御声である「みことば」に(いつも)養われて成長していくことです。そして、イエスさまから頂いた「救いの恵み」を自分の中だけに留めておかないことです。必ず、自分が(主の)通り良き管とされて、救いの恵みである「福音」を伝えていけるクリスチャンでありたいと思います。
ヘブル5:12
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。
ここで語られている「教師」とは、(今で言う)牧師とか宣教師のことを言っているのではありません。救われて何年も経つ人のことで、人に福音を語ることができる人のことを指しています。わたしたちがクリスチャンになって何年も経っているのに、どうやって福音を伝えるのか分からないのは困ります。そのためには、救いの恵みを(しっかり)自分のものにする必要がありますね。そのためには、常にみことばに耳を傾けて、神さまからのノックを受け取る者でありたいと思います。
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