キリストの完全な救い

したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。ヘブル7:25

  ユダヤ人にとって「祭司」は特別な存在でした。自分が神の前に出て、罪を赦してもらうための仲介=とろなしをしてくれる存在だったからです。それゆえ、ヘブル書を記した記者は、「祭司」という言葉を用いて、わかりやすく、キリストこそ、神の(まことの)大祭司であると証明しているわけです。なぜなら、律法で決められたように、レビ族から立てられた「祭司」は人間ですから(当然)罪があります。まずは自らが犠牲をささげ、清められてから、次にとりなしの働きをしたわけです。それを毎回繰り返しました。それに祭司も人間ですから死にます。祭司が死ぬとき、代わりの祭司が立てられました。すなわち、律法で立てられた「祭司」とは不完全な存在なんですね。しかし、主は違います。神の御子であるキリストが、人類の代表として身代わりに十字架にかかって罪に死んでくださいました。この主による贖い=「とりなし」によって、信じる「あなた」は(キリストによって)罪が完全に赦されているのです。主は復活され、天に昇られ、今も天で父なる神の右で、「あなた」をとりなし続けて下さるお方だからです。

  きょうの「みことば」に、「キリストによる救いは完全である」との宣言がなされています。「完全なる救い」とは、、、中途半端ではない「完璧な」救いです。私たちが何か良いことをしたり、何か奉仕をしたりしなければ救いが認められないのではありません。ただ、単純に神の御前に出て「私は罪人です」と認めるとともに、主がそのようなわたしの罪のために十字架で死んで下さったことを信じるだけなのです。わたしたちには(肉体的な)弱さがあるので、罪を繰り返してしまうこともありますが、、、しかし、神の前に悔い改めるとき、すでに(主の十字架での贖いゆえに)罪はすでに赦されていることを知らされるわけです。

  しかし、自分自身が気をつけたいとと思っているのですが、自分の中に「罪」を認め、その告白のために神の前に出て、主が赦してくださっていることに感謝をささげるのは必要なことです。しかし、神さまに「罪を赦してください」と毎回毎回祈るのは「おかしな」ことです。なぜなら、27節に、キリストはまことの神の大祭司であって、「ただ一度でこのことを成し遂げられた」とある通り、主はたった一度の十字架によって、「あなた」の過去の罪、今現在の罪、そして、将来にわたる罪をも(すべて)「完全に」「永遠に」赦すために、、、十字架にかかられたお方だからです。すなわち、イエスさまの十字架による「救いは完全・完璧」なものです。ですから、私たちにとって福音の正しいとらえ方は、、、何度も「赦しください」と神に願い出ることではなく、すでに赦されているわけですから、そのことに(いつも)感謝をささげることです。神さまとは(いつも)そのような関係を保つことです。そのような中で主を礼拝し、祈り、みことばに聴くこと、、、伝道することではないでしょうか。