なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。ガラテヤ3:18
15節に「人間の契約でも」という箇所があります。この「契約」という言葉は「遺言」と訳すことができます。遺言は、その後、他のだれかによって無効にされることも、付け加えられることもありません。遺言どおりのことが実行されていくだけです。パウロは、このように話したのち、もう一度、アブラハムのことを話し始めます。
パウロは(創世記15章にある)主がアブラハムに告げた言葉を取り上げ、そこでは「あなたの子孫は、このようになる」と主が単数形で言われたのであって、決して「子孫たちは」と複数形で語られたのではないことを指摘しました。もちろん、アブラハムの子孫、すなわち、イスラエルは(その後)星の数のように増え広がることを神は約束されたのですが、それだけではなく、実は、アブラハムの子孫に与えられるところのメシヤ、キリストのことを指していると語りました。「アブラハムよ。あなたは神のことばを信じる信仰者だ。だから、わたしはあなたを(その)信仰によって救おう。また、あなたから出るひとりの子孫を通して、同じように、信仰によって(多くの)者が救われるようにしよう。」 彼はこのことを信じて義とされました。17節に「430年」とありますが、これは、ヤコブの家族がエジプトに移り住んでか430年ということです。アブラハムへの祝福の約束(契約)は、子のイサクへ、そして孫のヤコブへと引き継がれました。その後、イスラエルがエジプトで増え広がったことにより、奴隷とされてしまいました。それから430年が経って、イスラエルはそのエジプトを脱出しました。脱出した時から三ヶ月目に、主がモーセを通してイスラエルに律法を授けていきました。
ユダヤ主義者たちは「モーセの律法」を教えましたが、その遥か以前に「アブラハムへの約束」があったわけです。 そしてその約束は、律法が後から入ってきたからと言って無効にされたり、変更されたりはしていないのです。すなわち、神の約束は有効であり、律法よりも優先されるべきものです。律法主義者たちは「行ない」による救いを説くけれども、神は「信仰による救い」を約束しているのです。すなわち、神さまがアブラハムに約束された「信仰による救い」の恵みは、決して変更されることはないのですから、アブラハムへの約束は、今の私たちにも有効であるということなのです。そのことをパウロは話しています。
パウロはここで、「(神による)救いの約束の恵み」を「相続の恵み」と言い換えていますが、人が「神さまの一方的な恵み」をいただけるのは、あくまでも信仰によるのであって、私たちが何か努力をすることでいただけるものではないのです。私たちが何も努力するわけではないのに、神さまの一方的な恵みによっていただけるのが「救いの恵み」です。大切なことは、神が(私を罪から救うため、)キリストを十字架におつけになったほどに、私を愛して下さったことを「信じること」なのです。
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