聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。ガラテヤ3:8
パウロは、(律法を重んじるユダヤ主義の兄弟たちからの言葉で)信仰がぐらついたガラテヤの異邦人クリスチャンたちに励ましのメッセージを送りました。パウロは、彼らが聖霊をいただいたときのことと、「キリストを信じて」信仰生活が始まったときのことを思い出させ、そして、次に、聖書のことばに焦点を当てていきました。パウロは、聖書から「信仰によって義とされたアブラハム」のことを話しました。実は、モーセの律法よりはるか以前に、アブラハムが信仰によって(神の前に)義とされたという箇所があるんですね。パウロは「ここから」、アブラハムに対して神が行なわれたことを柱として福音を説き明かしました。
アブラハムは(もともと)異邦人だったんですね。しかし、神によって選ばれ、神の御声を聴いて(偶像に満ちた)故郷ウルを離れたアブラハムは、信仰によってカナンの地を目ざしたことがわかります。そして、カナンでも甥のロトと別れるとき、アブラハムは神さまの導きを信じて、ロトに好きな土地を先に選ばせて自分は残りの土地を選びました。ロトがソドムで周辺の王たちによって攻められ、財産を奪われた時に、アブラハムは信仰によってロトの家族と財産を奪い返しました。そして、アブラハムはメルキゼデクによって祝福を受けました。アブラハムは信仰の人だったんですね。そんなアブラハムが神によって義と認められたのは、実は、そのあとの出来事です。神さまから子孫が与えられる約束を聞いたアブラハムは、神によってテントの外に連れ出され、輝く満天の星を見せられました。そして、神から「あなたの子孫は、このようになる」と告げられた時、、、創世記15:6で、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」となるわけです。
アブラムは神さまから「義」と認められたとき、何一つ、自分で行ないをしたわけではありません。「ただ信じた」だけなんですね。ここが大切なところです。アブラハムは神を信じることによって、神の救いという祝福を受けました。そして、私たちも神を信じる信仰によって「救い」にあずかるのです。神は異邦人でも信仰によって「義」として下さるために、、、(そのはるか昔に)アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げられたのですね。
私たちも、ガラテヤの異邦人クリスチャンたちが陥った失敗をしないようにしたいものです。例えば、聖書を読もうとするとき、それを律法的に考えてしまい、「聖書をもっと読まなければ、、、」という思いで読むことはないでしょうか。そうではなくて、私たちは「救われた喜びをもって」聖書を読めばいいのです。自らの信仰の成長を願って、「このようなとき、もっとこのような自分にならなければ、、、」と(努力して)自分を追い詰めるのではなくて、、、キリストの一方的な救いを下さった神の恵みに心から感謝し、主の御声を聴く者となりたいと思います。
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