神の約束で生まれる

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。 ガラテヤ4章28節

 ガラテヤの人々を惑わせていたユダヤ系クリスチャンたちは、(律法を守り重んじている)自分たちこそアブラハムの子であり、神の民であることを自慢していましたが、ここでパウロは(創世記から)アブラハムに子どもを産んだ2人の女性を取り上げ、自分たちこそ「神の民」であると自慢する者たちが、本当に「アブラハムの子」であると言えるのか、について言及しています。


 そこで、パウロは22節で「ふたりの子」について触れますが、ふたりの子とは「イシュマエル」と「イサク」ですね。イシュマエルの母は、サラの女奴隷「ハガル」です。そして、イサクの母はアブラハムの妻サラであり、奴隷ではありませんでしたので「自由の女」と記されています。 イシュマエルとイサクの違いは、母が違うだけではなく、その誕生の仕方に違いがありました。イシュマエルは23節で「肉によって生まれた」とある通り、妻のサラは夫アブラハムに女奴隷ハガルを与え、夫に子どもを産ませました。神がアブラハムに「あなた自身から出た子どもが後継ぎになる」とのお告げがあったにもかかわらず、10年たっても子どもが与えられなかったため、サラは人間的な思いから、女奴隷によって夫に子どもを与えようとしたのです。一方、イサクについては「約束によって生まれた」とあるのは、、、そのときアブラハムは人間的には子どもを望む事ができない年齢ではあったけれども、神の約束された通り、神の超自然的な御力によって「生まれた」ことを指しています。パウロは、(ここで)、、、イシュマエルは「肉によって生まれた」「奴隷となる子」なのに対して、イサクは「神の約束によって生まれた」「自由の子」なのだと言うわけです。


 「肉によって生まれた奴隷の子」とは、律法の様々な命令に「しばられた」生き方しかできない者のことであり、また、人間的な思いや努力で生きようとする者を表しています。まさに、(ガラテヤの人々に律法を守ることを勧めた)ユダヤ系クリスチャンたちのような人たちのことです。 一方、「神の約束によって生まれた自由な子」とは、キリストの救いを信じて生きる者のことであり、また、律法のしばりから解放された生き方をする者のことを表しています。さあ、あなたは、イシュマエルのように肉によって生まれ、いつまでも律法にしばられている人ですか? それとも、神の約束によって生まれたイサクのように、キリストを信じて新しく神によって生まれ、律法のしばりから解放されている人ですか?、、、 わたしたちはイサクのように「神の約束の子ども(継承者)」として生きたいと思います。


 今までジョイキッズのイベントを前に、いつも上島小学校前で「チラシ」を配っていたのですが、この4月から「登下校でのチラシ配布をご遠慮ください」と、学校から告げられてショックでした。しかし、「代わりに学校の昇降口にチラシを置き、子どもに自由に取ってもらうつもりです」とも言われました。これまでは、(何とかして)自分たちでチラシを手渡して子どもを誘おうとしてきましたが、、、神さまから「任せない」と示されたようにも感じました。主の御力と働きに期待したいと思います。