あなたがたの喜びは

それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。 ガラテヤ4章15節

 人はだれでも病気になりたいとは思いませんし、弱さもかかえたいとは思いません。病気や弱さを抱えることで、私たちは「生きづらさ」を感じ、人生が(なにか)妨げられているようにさえ感じます。 しかし、神さまは弱さを用いられるお方であることを、きょうの箇所から教えられます。


 パウロは、ガラテヤ地方に初めて足を踏み入れ、キリストの福音を語り伝えていったとき、肉体の弱さをかかえていたことがわかります。それは、多くの迫害によってケガを負い、あるいは、病気になったのかも知れません。肉体に何らかの弱さをかかえていました。そして、その弱さはガラテヤの人々に「つまづき」を与える恐れもあったとパウロは振り返っています。それは、当時、ローマ帝国支配下のガラテヤでは、病は悪霊から来ると信じられていたからです。「神を信じ伝える者が(なぜ)重い病気をしているのか」と、彼らが「つまづく」恐れがあったわけです。しかし、神は不思議なことをなさいました。弱さをかかえながら、それでも命がけで福音(キリストの救い)を伝えるパウロの働きを、神が豊かに用いられたのです。ガラテヤの人びとは、パウロの弱さを軽蔑したり、きらったりしないで、かえって(パウロを)天使とキリストでもあるかのように、、、迎え入れてくれたのです。


 なぜ、このような出来事が起こったのでしょうか。それは、ただ神の御業としか言いようがありません。パウロは、キリストの救いを必死に伝えたのでしょう。みなさん、キリストの救いとは、神が一方的に救いの御手を差し伸べてくださった、主の十字架のお話です。キリストは神であるお方なのに、人間の姿で(あえて人の弱さをまとってくださり、)この地上に生まれ、そして、人の弱さを身代わりに負い、多くの苦しみを経験され、十字架で死に復活してくださったお方です。ガラテヤの人たちにとって、自分たちの弱さを知り、寄り添ってくださる神キリストの姿が、(弱さをかかえながら宣教する)パウロの姿と重なったのでしょうか。ガラテヤの人々は、パウロを受け入れ、彼が宣べ伝える福音(キリストの救い)を信じたのでした。


 私たちにとって「弱さ」は決して悪いものではありません。なぜなら、神は「弱さ」の中に働いてくださるからです。私たちが自分の力で何とかしようとする時には、神の恵みになかなか気づかないのですが、私たちが「弱さ」を覚えて神の御力に頼るとき、神は働かれるのです。私たちの教会も、まさに主のように人の「弱さ」を受け入れることができる「交わり」にしていきたいですね。弱い私たちのために主が死んでくださったように、私たちも人の弱さを受け入れる教会になること、、、、、それこそ、私たち教会がめざす「喜び」なのです。パウロが何とかして取り戻したいと思っているガラテヤ諸教会の「喜び」とは、、、そのような「喜び」なのです。