ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。ルカ15:22
きょうは、イエス様がされた「放蕩息子」のたとえ話から、聖書の神さまのお姿についてご紹介します。主はこのお話に登場する父親の姿を、聖書の神のお姿として表されました。弟息子は父親がまだ生きているにもかかわらず、お金欲しさに財産をわけてほしいと(父親に)願い出ます。父親は、そのような息子に(なんと)財産を半分わけてやります。息子は財産を手に入れると、快楽を求めて町へと出ていくわけです。実は、私たちは(弟息子のように)かつては神の前に「失われていた」者ですね。なぜなら、弟息子が父親(=すなわち神様から)財産を分けてもらい神の前から姿を消したように、、、私たちも(実は)すべてのものを神様から与えられているのに、そのことに気づかず、自分の力で生きていると思い違いをしている者だからです。
弟息子は(父からの大切な財産)お金を湯水のように使い果たし、無一文になって自分の力では決して「生きていくってことなどできない」と痛感したとき初めて、、、故郷の父親のところに戻りたいと思いました。そして、父に対してどんなにひどいことをしたのかに気づかされた彼は、父のところに戻って謝り、「もう、私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。どうかわたしを雇ってください」(ルカ15:18,19)と申し出ようと決めていました。ところが、父は帰って来た息子を見て、走り寄りって口づけし、彼を抱きしめました。そして、「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません、、、」という息子の言葉をさえぎるようにして、一番良い着物と指輪と靴とを息子に用意するように家のしもべに告げたのです。そして、次のように言いました。
「、、、そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』(ルカ15:23,24)
父親は、「わたしを雇ってください」と申し出ようとした息子の言葉を(なぜ)さえぎったのでしょうか。それは、父親が帰って来た息子を、雇人ではなく「息子として」迎え入れようとしたからです。その証拠に、父親は息子に一番良い着物と指輪と靴を用意させました。父が息子を「自分の子どもとして」愛していたからです。
同様に、神は私たちひとり一人を愛しています。そして、神から離れていた私たちが(悔い改めて)父なる神のもとに立ち返るとき、神は「あなた」や「わたし」を「神の子ども」にして下さるのです。キリストは、私たちが神のもとに立ち返るために、クリスマスに生まれて下さったお方です。
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