「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19: 9,10
本日の箇所からわかりますが、ザアカイは取税人でした。しかも、彼は取税人のかしらでした。取税人とは町の人々から税金を取り立てる仕事です。人々が憎むローマ帝国に納める税金を取り立てたものですから、ザアカイはユダヤ人たちから「売国奴」として嫌われ、罪人と呼ばれていました。そんな彼がこの町をイエス様が通るという「うわさ」を耳にします。ザアカイも主が悩む人々の病を癒し、人をも生き返らせ、救世主とも噂されていたお方であることは知っていたことでしょう。(いよいよ)主が町を通られるというとき、彼はイエス様をどうしても見たくなりました。そこで、木の上に登り、主を見ようとしたわけです。しかし、このとき、驚くべきことが起こりました。大勢の人々がいる前で、なんと、主がザアカイの名を呼ばれたからです。ザアカイは驚きました。一度も会ったことがないお方が、なんと自分の名前を知っておられたからです。彼は不思議に思ったでしょう。そして、主の中に神を見たことでしょう。そのイエス様が「きょうはあなたの家に泊まることにしている」と仰ったので彼は大変に驚いたわけです。
このときイエス様は、ザアカイを神のもとに導こうとされていたことがわかります。主から(親愛の意を込めて)名を呼ばれた「ザアカイ」は、嬉しくなって急いで木から降り、主を家に迎えました。そして、主を前にして(一大の)悔い改めをします。彼は財産の半分を貧しい人々に施し、彼がこれまで騙し取った人々に、お金を四倍にして返すことを約束していくんですね。
みなさん、イエス様は一体どのようにしてザアカイを悔い改めへと導いたのでしょうか。それは、主が(慈しみをもって)名を呼んだところからわかります。ザアカイは(一方的な親切とも言うべき)主の愛によって心が変えられていったに違いありません。親の子に対する愛も一方的なものです。子どもがどんなに親に反発し、悪態をつくことがあったとしても、親の愛がわかっている子どもは(必ず)親から離れないものです。一方的な愛や一方的な親切は、人の心を開くのです。しかし、逆に、罪人を悔い改めに導きこうとするとき、その人の罪を指摘して(一方的に)裁くならば、かえって(その人は)意固地になって罪を認めようとはしないでしょう。主はそのような方法ではなく、罪を赦し、罪人を愛して下さいました。しかも、ザアカイの家に泊まることを通して、とことん愛して下さったのです。しかし、主は決して罪を見過ごされる方ではありません。主は人の罪を赦すためにご自身が身代わりとなり、十字架で神による罰を受けて下さったお方です。主の身代わりの死によって、あなたや私の罪は完全に赦されました。私たちは(誰もが)そのように主から一方的に愛されていることがわかるからこそ、悔い改め、神に立ち返ることができるのです。神は(神の前に)失われた「あなた」を救うためにイエス・キリストをクリスマスに遣わされました。主に心から感謝したいと思います。
0コメント