あなたを捜しておられる神

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」 ルカ15:4


     たとえ話の「羊飼い」とは、神様イエス様のことです。そして「羊」とは(私たち)人間のことです。「羊飼い」は自分が所有している羊のことをよく知っていて大切にしています。羊は目が悪く、自分では牧草地を見つけることができないため、羊飼いは常に彼らを導くわけです。羊の命は、羊飼いにかかっているんですね。 同様に、神は、私たちの造り主であって命の源ですね。しかし、4節に「その内の一匹をなくしたら」とあるように、私たち人間はその歴史の中で(羊飼いである)神に背を向け、神から離れて歩む者となりました。しかし、羊が羊飼いから離れたら死んでしまう恐れがあるように、(神から離れた)私たちは肉体的には生きてはいても、霊的には死んでいて永遠の滅びに向かっているようなものなのです。しかし、羊飼いが「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩くように」、神は、神から離れ、生きる目的もわからずにさまよう私たちを見てず、熱心に捜してご自身のもとに取り戻そうとされるお方です。


このたとえ話は、取税人や罪人に向けて話されただけではなく、律法学者たちに向けても語られたものです。それは一体どういうことかと言えば、この話の中でイエス様は、神のもとに立ち返った罪人を、神がこれほど喜んでおられるのに、それを「(なぜ)あなた方は共に喜べないのか」と律法学者たちに問いかけているんですね。 イエス様は「その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」と言われました。九十九匹とは「九十九人の正しい人のこと」であり、「律法学者やパリサイ人のこと」を指しています。彼らは律法を守り行っていて自らを神の前に正しいと考え、イエス様を救い主として受け入れませんでした。イエス様は(そんな彼ら羊を野原に残して)一匹の迷える羊を捜しにいくわけですが、野原に残った羊たちは大丈夫でしょうか?羊飼いがいなければ羊は危険にさらされてしまうのです。しかし、彼らはそのことに気が付かないわけです。


私たちはどうでしょうか。(クリスチャンである)私たちも気を付けなければならないことがあります。それは、独りよがりの信仰になっていないかどうか点検する必要があります。自分は神を信じ、イエス様を救い主として信じているから大丈夫だと思っていることへの警告のように思います。律法学者たちは確かにまじめに律法を守り行うよう努力していた人たちで、そのことは確かに立派です。しかし、人の失敗や弱さを見て、それをただ裁くだけの、愛のない「正しさ」は、神が望まれる「正しさ」ではないのです。他人の失敗や弱さを見て、自分にも同じ弱さがあることを見つめることができるのが、本当の「正しさ」なんですね。私たちは(どんな時にも)キリストの愛を規準にして、自分自身の信仰を確認したいと思います。イエス様だったら「こんなとき」どうされるだろう。それによって自分の信仰を見つめ、必要に応じて悔い改め、修正していけるクリスチャンでありたいと思います。神は、そのような「あなた」を捜しておられるお方です。