賛美のいけにえをささげよう

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。ヘブル13:15


 旧約の時代には、イスラエルの民が神を礼拝する時には動物のいけにえをささげることが求められていましたが、キリストが私たちのために「ご自身のいのち」という最高の「いけにえ」をささげてくださったことで、クリスチャンは動物という「いけにえ」ではなく、神が喜ばれる「霊的ないけにえ」をささげようではないか、と勧めています。


 その「霊的ないけにえ」とは「どのような」ものでしょうか。一つは「賛美のいけにえ」です。15節に「御名をたたえるくちびるの果実」とあるのがそれです。すなわち、くちびるを通してささげられる感謝の賛美です。 「賛美」というと、多くの人は賛美歌やワーシップシップソングを歌うことをイメージするかも知れませんが、ここで言われている「賛美」は「歌」だけではありません。主に心からささげる賛美のことですから、祈ることも、証しすることも、くちびるを通してのものですから(これも)賛美です。特にここには、「絶えずささげようではないか」とありますから、順風のときだけでなく、辛く苦しい逆境の時も(主にささげる)賛美のことです。 


 いったいどうすれば、逆風の、辛く苦しい時にも(私たちは)「賛美のいけにえ」をささげることができるのでしょうか。私たちには(とてもできない)と考えてしまいませんか? しかし、イエス様がそんな「あなた」のために十字架にかかってくださり、今でも主を信じる「あなた」に力をくださり、助け続けてくださいますから大丈夫なのです。私たちはイエス・キリストを通してでなければ、いつでも絶えず「賛美すること」などできないものですね。なぜなら、イエス様はあなたを愛し、あなたが一番苦しい時にあなたを離れず、あなたのために(あえて苦しみを引き受けられ)ご自身のいのちをも捨ててくださったお方だからです。だからこそ、、、あなたのくちびるを通して賛美が自然とあふれてくるわけです。


 パウロはローマ12:1で、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とみことばを伝えています。パウロは、「あなたがたのからだを(礼拝の中で)ささげなさい」と伝えました。普通ならば「心をささげなさい」と言うのではないかと思うのですが、「からだをささげなさい」と言いました。からだをささげるとは、自分の全てをささげるという意味です。クリスチャンがささげる「いけにえ」は死んだ動物ではなく、生きている自分自身であって、自分の存在のすべてが、自分の生活そのものが、神様への「いけにえ」だということなのです。