主の苦難を身に負って

、、、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、 キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。ヘブル13:12,13


 ヘブル人への手紙は、迫害の中でキリストの信仰から「こぼれ落ちて」しまいそうなユダヤ人クリスチャンたちを、イエス様から離れないように励ますために書かれた手紙です。そして、12章と13章には、イエス様から離れないための秘訣が(いくつか)記されています。本日の箇所では、「信仰告白をし続ける」ことの大切さが語られています。


 あなたがクリスチャンであることを、あなたの家族や親せきの方は知っておられるでしょうか。また、友人や学校、職場の方々はいかがですか? もしも、あなたがクリスチャンであることを周りの人に打ち明けるとすれば、おそらく、あなたは日本の社会の中で様々な「葛藤」や「困難」を覚えることでしょう。学校の修学旅行で京都のお寺や神社などに出かけることがありますし、自分の家がお寺さんの檀家である場合もあるでしょう。また、日曜日に学校の部活があったり、仕事を頼まれたりして困ることもあるでしょう。キリスト教のことを知らないけれども、やたらと反対する人もいます。そのような中で「困難」はあるけれど、自分の信仰を守るためには「信仰告白」することが大切です。逆に、信仰告白しなければ、、、それほど「葛藤」や「困難」を感じないはずですから楽でしょう。みなさん、信仰を守るためには(ときに)「困難」を経験することが大切ですね。なぜなら、その「困難」を信仰をもって乗り越えるためです。


 多くの迫害を受けていたユダヤ人クリスチャンたちは、その迫害を避けて逃れるために、(もとの)ユダヤ教の仲間たちがしている神殿礼拝をしようとする人たちがいたのでしょう。10節には、神殿礼拝で捧げられた動物の肉のことが記されています。ヘブル人への手紙を書いた著者は、神殿礼拝には「救い」がないことを伝えたのです。モーセのとき以来、イスラエル人は神殿で動物の犠牲をささげ、罪赦されてきましたが、すでに、救い主キリストが与えられ(アブラハム→シナイ→ダビデ契約→キリストによる新しい契約)へと更新されたのだから、動物の犠牲で罪赦される時代は終わり、「キリストにこそ真の救いがあるのだ」と教えているのです。


 むかし、神殿でほふられた犠牲の動物は、その血が聖所や祭壇周囲に注がれ、脂肪は祭壇で焼かれ、内臓や肉は「汚れている」として、宿営の外に捨てられました。同じように、キリストはエルサレムの町の外側(宿営の外で)十字架にかかり処刑されました。イエス様はあなたや私の罪をすべてその身に負われ、苦難と困難を経験され、自ら「汚れたもの」として死んで下さいました。そのおかげで、あなたは罪赦されて神のものとされたのです。罪赦された私たちも、主が(自ら)苦難と困難を避けることなく歩み進まれたように、、、、信仰をもって歩ませていただきましょう。