さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。ヘブル13:9
教会が信仰に堅く立ち続けるためには、教会に集うクリスチャンたちが「みことば」を正しく理解して養われる必要があります。そのためには、みことばを伝える「教会の指導者」たちが聖別され、整えられる必要があります。ですから、神の言葉を教え話した指導者たちを思い出し、彼らの信仰の結末をよく見て、(あなた方も)その信仰にならうようにと勧めているわけです。しかし、どんなに素晴らしい指導者であっても失敗をすることがあります。そして、どんなに素晴らしい指導者であっても歳をとり、彼らの時代はやがて過ぎ去ります。ひょっとしたら、彼らは後の世の人々に影響を与えることがあっても、彼らが生きて彼らを導くことは出来ません。ですから、私たちに出来ることは、そのような指導者たちの教えを思い出し、彼らの信仰の結末をよく見て、その信仰にならうことです。そして、最終的には、(そのような信仰者を常に励まし、養い、導き続けた)神様に目を留めることが大切です、、、教会の時代にあっては、、、イエス様に目を留めることが大切なのです。なぜなら、イエス様は永遠に生きておられ、いつまでも変わらずに私たちを助け、慰め、励まし、力づけてくださるお方です。この方がいつも私たちの側にいてくださるわけです。
ですから、9節にあるように、「さまざまな異なった教えによって惑わされない」ことが大切です。このあとに「食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。」とありますが、この手紙が書かれたころ初代教会では、主イエス様の救いに加えて、ユダヤ教の律法をも守り行うことを(救いの条件のように)勧める教えがはびこっていました。律法には、神の民イスラエルが食べてもよい食べ物と、逆に食べてはならない食べ物が規定されていました。それを、キリスト教会の中に持ち込もうとする(異端的な)指導者がいたということです。しかし、私たちが救われるために必要なすべての御業は完了しました。イエス様は十字架の上で「完了した」と言われました。ですから、私たちはそのイエスが成し遂げて下さった救いの御業に感謝して、神様の「恵み」として喜んで受け取ることが大切ですね。
このことは、現在の私たちにも同じことが言えます。なぜなら、クリスチャンの中にも誤解をして「恵み」を重んじるのではなく、自分の行いを重んじしまう人がいるからです。例えば、信仰者として(たくさん)奉仕をすることで満足感を得ようとしたり、(たくさんの)献金したりすることで(同じく)「安心」を得ようとする人はいないでしょうか。、、、、奉仕したり、献金すること素晴らしいことですが、そうしなければ「救われない」と受け取っておられるならば(それは)大変な誤解です。そうではなく、私たちは神の恵みによって只、救っていただいわけで、、、奉仕も、献金も、その喜びから(溢れて)するだけなんですね。イエス様が十字架で成し遂げて下さった「救いの御業」に信頼し、それを恵みとして受け取るならば、あなたの心は強められるのです。
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