すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。ヘブル12:14
きょうは、神の恵みから落ちることがなく、信仰生活を最後まで走り続けるために必要なことを2つご紹介しましょう。
まず第一に、(最後までレースを走り続けるためには)、「すべての人との平和を追い求める」ことです。一部の気の合う人とだけの関係や交わりを求めるのではなく、すべての人との平和を求めることの大切さが記されています。信仰生活において疲れ果ててしまう原因の一つに、人間関係がうまくいかないことが挙げられます。ですから、すべての人と平和を保つことは大切なのです。マラソンのような競技では「勝敗」を競うわけですが、信仰生活においてはクリスチャン同士で「勝ち負け」は競いません。信仰生活は「競争」ではなく「共生」なんですね。ほかの人を蹴落とすことではなく、ほかの人と共に生き、励まし合って天国を目ざすものです。ですから、すべての人との平和を追い求めていく必要があるわけです。長い信仰生活の中には、受け入れることが苦手な人がいて上手くいかない場合もありますが、、、私たちは無用な争いを避け、信仰によって(主を真ん中にして)互いに近づいて一致を求めたいと思います。主を中心にして互いに歩み寄るためには、、、聖霊の力が必要ですね。互いに(どちらにも)内側に聖霊がおられるならば、、、必ず一致できるはずです。しかし、、これ以上は難しいなと思うときには主の御手に委ねましょう。
第二には、「『聖められる』ことを追い求めなさい」とあります。「聖められる」とは「区別される」ということです。何に対して区別されるのかと言えば、この世(の価値観)です。聖書はこの世の書物とは違います。なぜなら、この世の書物は人が書いたものですが、聖書は神ご自身が書かれた書物ゆえに、この世と区別された書物なのです。ですから、普通の本を読むように聖書を読んでも、その内容を理解するは出来ません。なぜなら、聖書は(神の霊感)=聖霊によって書かれたものなので、読み手も聖霊をいただいていなければ(聖書の真理は)理解できないのです。聖霊をいただくことこそ、、、「区別される」ことであり、「神のものとされる」ことなんですね。私たちが(最後まで信仰のレースを走り続けるためには)神のものとされて、、この世と区別されて生きることが大切です。神のものとして「区別されて」生きるとは、この世にありながら、神様を中心にして生きることです。私たちは毎週日曜日に礼拝をささげますが、なぜ礼拝をささげるのですか? それは、神様を最優先にして生きているからです。この世にあっては様々な用事で日々忙しく走り回っていますが、その中にあっても神を中心にして生きているからこそ礼拝をささげ続けることが出来るのです。だれも暇な人などいません。みんな忙しいのですが、その忙しさの中にあっても神様を中心にして生きてるからこそ礼拝をささげるわけです。これが「区別される」ことなのです。私たちは信仰生活を最後まで走り続けるために、「すべての人との平和」と「聖さ」を大切にしながら求めていきたいと思います。
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