「キリストによる救い」

使徒となったパウロ・・私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。ガラテヤ1:1


 「ガラテヤ人への手紙」は、パウロが開拓したガラテヤ地方(現在のトルコ中央部)の諸教会宛てに書き送ったものです。手紙の冒頭で、パウロは自らの使徒性を強調しています。なぜなら、エルサレム教会からやって来た偽教師たちが、パウロの使徒性と教えを否定したことが原因で諸教会に混乱が生じたからです。偽教師たちは、人が「救われる」ためには信仰だけでは不十分で、割礼を受け、律法を守るように勧めました。しかし、自らが開拓伝道した教会の信徒たちの福音理解に混乱が生じたことを憂慮したパウロは、この手紙の中で自らの使徒性=正当性を強調し、(改めて)正しい福音を彼らに伝えようとしたわけです。


 使徒というのは、一言で言うならば、キリストの代わりとなる使い=すなわち、キリストの代理者のことです。聖書の中で、主は12弟子を選び、彼らを使徒としました。これは、主が選ばれたことなので問題はありませんが、パウロ自身も復活のイエス様に出会い、主からキリストの代理としての働きを託されたと受け取っていることが強調されています。


 みなさん、当時の偽教師たちは聖書の中で神が何と仰っているかに重きを置いたのではありません。彼らは、エルサレム教会の中で人によって語られていることに、重きを置いてしまう過ちを犯してしまいました。すなわち、昔から習慣的に行われている律法を守ることを重んじ、また割礼を受けることを強調しました。しかし、大切なことは聖書で神様が何と仰っておられるかなのです。神は、神を信じたアブラハムを義とされたことを、パウロは聖書の中に見出しました。人は信仰によって義とされる。これは、アブラハムが割礼を受け、また、モーセが神から律法を与えられた出来事よりも遥か以前に、神が宣言されたことなのです。


 大切なことは、人が神のために何かをしなければ救われない、ではなくて、、、、神があなたやわたしの救いのために、何をしてくださったかなのです。「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。(4節)」イエス様は、罪の世から(あなたやわたし)を救い出すために、この世に来られ、主自らが(あなたやわたしの)罪の身代わりに神の怒りを受けて死んでくださった。そして、主の身代わりの死に免じて、神はあなたやわたしの罪を全きに赦して下さいました。これは、父なる神の御心であり、救いのご計画だったわけです。私たちも、神様が自分に与えて下さった「救い」を、このように明確にしっかりと語ることができるでしょうか。私たちが(パウロのように)福音をきちんと語るためには、この救いの確信が欠かせないのです。そして、このような救いの確信があるからこそ、すべての恵みを神に感謝し、栄光を神に帰すことができるのです。