ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。ガラテヤ1:7
皆さんも良くご存知のとおり、「信仰によって救われる」。これが福音の大原則です。しかし、イエス様を信じた後に、罪深い思いを何度も抱いてしまう自分が気になり、、、こんな自分でも本当に救われているのだろうかと不安に感じたことはありませんか。、、、、でも結論は、「信仰によって救われる」というのが答えです。
パウロは、ガラテヤ2:16において「信仰義認」を強調しています。「人はキリストを信じる信仰によって救われる」というのが、ガラテヤ人への手紙の中心的なメッセージになっています。実は、中世カトリックは政治権力と結びついて腐敗し、免罪符をお金で発行して信仰よりもお金で罪が赦されるという、そんな時代でした。そんなときに、マルチン・ルターはガラテヤ書に記された「信仰義認」(ガラ2:16)に目がとまり、宗教改革のために命懸けで立ち上がりました。
「キリストを信じる信仰によって救われる」…これが、福音の生命線であり、パウロの伝えた福音でした。 ところが、ガラテヤの諸教会に、「信じる信仰だけでは救われない、、、割礼を受け、律法も守らなければならない、、、」という教えが入り込んできました。割礼とは、生まれて8日目に男の赤ちゃんの、性器の先の包皮を切る儀式です。これは信仰に生きる証しとしての表現ですね。割礼と似ているのが、私たちの洗礼かも知れません。洗礼は「救いの条件」ではありません。やはり、イエス様を救い主として信じる信仰告白の表現であって、救いの条件ではありません。同様に、割礼もユダヤ人にとっての信仰告白の一つの表現だったわけで、、、大切なことは形ではなく、やはり信仰なのです。ところが、伝統的なユダヤ教の背景を持つ指導者たちがエルサレム教会からやって来て、「キリスト信仰だけで救われるのではなく、割礼を受け、モーセの律法を守ることによって救われる」 そう言って、ガラテヤの諸教会の人たちに説いて回ったわけです。手紙の中で、パウロは「呪われるべき」という強い表現を用いました。これは「絶対に、そんなことはあってはならない」…そういう意味です。 それだけ、救いは「行ない」によるのではなく「信仰による」ということが非常に大切なポイントだったのです。
パウロは「使徒」として、命懸けで福音を説いているのが、この「ガラテヤ人への手紙」です。私たちも、この手紙を通して、、、、パウロが(こだわりに、こだわった)「信仰による救い」、その福音の恵みの素晴らしさを(しっかりと)受け取っていきたいと思います。
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