キリストの自由

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。ガラテヤ5:1


 きょうは、「キリストの自由」をテーマに見てまいりましょう。皆さんは「自由」という言葉を聞くと、どのようなイメージを持たれるでしょうか。おそらく、「自分の思うままに」とか「自分の好き勝手に」というイメージではないでしょうか。しかし、きょう、聖書から教えられるところの(神さまが下さった)「キリストの自由」は、そのような「自由」ではないことがわかります。


 5章1節には、神さまがキリストを通して、(主の救いを)信じる「あなた」や「わたし」に「自由」を下さったと記されています。この「キリストの自由」とは、「罪からの解放」のことです。わたしたち人類は、アダムとエヴァ以来、罪のしばりを受け、罪の奴隷となってきました。そんな人類を罪から解放するために、神は「神の民」イスラエル民族を起こし、(約束どおり)ダビデの子孫からイエス・キリストを誕生させて下さいました。神は、御子キリストを人類ひとり一人の罪の身代わりに十字架につけられ、その犠牲の死に免じて、、、わたしたち人類ひとり一人の罪を赦し、罪のしばりから完全に解放して下さいました。わたしたちは、神さまが一方的に与えて下さった「キリストによる罪の赦し」を(ただ感謝と喜びをもって)信じ受け取るだけで「救われる」のです。これが「福音」であって、「キリストの自由」なのです。


 ただ、「キリストの自由」の「自由」というのは、わたしたちがイメージする「自由」とは全く違うということです。「キリストの自由」の特徴的なところは「与える自由」であり、一方、わたしたちがイメージする「自由」は、自分中心に「受ける自由」だからです。なぜそのように言えるのでしょうか。ピリピ2章6節から8節までの「みことば」を見てみましょう。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。

ここには、キリストが父なる神の御心に応えて十字架の死にまでも従われたと記されています。キリストは神様ですから、(ありとあらゆる)すべての自由を持っておられた方です。そのキリストが、、、なんと自ら苦しみを負われ、死にまでも従う「自由」を選択されたことがわかります。わたしたちには到底できないことなのですが、、、この「与える自由」こそが、キリストの自由なのです。


 わたしたちには(とても)難しい「自由」だと思われるかも知れませんが、、、主の救いの喜びと感謝に満たされるとき、気づかぬうちに。わたしたちも「与える自由」を経験しているのです。主に捧げる奉仕や献金も、、、実は、すべてが「与える自由」によるものなのです。少なく捧げるのも、多く捧げるのも(すべて)自由です。ただ、決して忘れてはならないのは、キリストによって(一方的に)救われた喜びと感謝なのです。